メロンダウト

メロンについて考えるよ

インフォームドコレクトネス~深淵としてのインターネット~

ここ数年間、政治的な議論においてたびたび使用されているものにポリティカルコレクトネスがある。「政治的正しさ」といった意味で使われているポリコレであるが、これには致命的な錯誤がある。

「政治的正しさ」は民主主義社会においてそもそも矛盾した言葉となっている。民主主義はプロセスの制度であり、正しいか正しくないかは倫理や道徳の範疇のものである。

しかしながらポリコレという言葉を発する人々にとって政治と正しさは直結して考えられている。本来は道徳的なものに過ぎない正しさと、民主主義というポリティカルな手続き、これらを同一視することによって政治が正しさに飲み込まれている。

「ポリティカルなコレクトネス」とは民主主義社会においては原理的に存在しない。政治と正しさは別の議論であるからだ。にも関わらず、ポリコレという錦の御旗のもと、政治に正しさを紐づけようとする。それは民主主義社会において許されていいものではない。ポリコレがあるとするならそれは独裁政権や王政のような制度においてのみ存在しうるものであろう。民主主義においては民意がすべてであり主権は国民にある。その点においてポリティカルなコレクトネスなるものは言葉の成り立ちとして撞着している。

こうした問題はポリコレに限った話ではない。トンポリやマンスプなども同様の問題を抱えている。簡便的な言葉を発明することによって、それをコピーライトとして使用し、雑に世界を規定する。そのような例は無数に存在している。

こうした言葉の濫用(ポリコレ、トーンポリシング、藁人形論法、マンスプレイニング等)によって今何が起きているかと言えば、「言葉の形式」によって議論が展開されるようになってしまったことだと言えるだろう。

ポリコレを例に出して言えば、僕達は政治的に正しくない言説を見つけた時にそれをポリコレだと言ってしまえば正しい言論であるかのように、自己満足的に陶酔できてしまう。つまり、なにがしかの言葉を発明し、その言葉の形式を持ってして、カットケーキのように現実を切り取る。それがすなわち批判であるかのように成立していることがすでにしておかしいのである。ポリコレを筆頭に言葉の簡便的作法が広く普及してしている。形式的な言葉を持ってして現実を切り取れば批判した気持ちになれるけれど、それがすなわち議論を建設的なものにするかどうかは疑わしい。というか、議論を破壊しかねないのではないだろうか。文系的な議論は理系的な公式や法則によって形式的に切り取るべきものではない。ポリコレなどの公式によって議論を方程式として組もうとすることそのものが文系的には怠惰だと言わざるを得ない。

ポリコレが自明の論理、公式であるかのようにして議論を展開することが思想を先鋭化していってしまう。そのような事例があとを絶たない。フェミニズムがラディフェミを生んでしまったように、弱者男性論が「女をあてがえ」という言説を生んでしまったように、救済や平等ですら自明の論理として扱うとおかしな方向に飛躍してしまう。単元的及び形式的思想はそれだけでは「事が足りない」。にも関わらず、それらを自明のものとして考えている人々が相当数いる。その代表例がポリコレなのであろう。言葉を自明的に扱うことで、その正しさを自明のものであるかのように装うことができる。

 

こうした自明性は、換言するに、形式的とも言えるものであるが、こうした形式的な議論がなぜ生まれるかについてはそれがすべて「情報による闘争」であるからだと言える。

情報は英語でinformationであるけれど、informationの語義はinform(知らせる)であり、さらに解体すればin-formになる。form(形式)にin(はめこむ)という意味で、情報は形式に収斂していく性質を持っていると考えられたのであろう。

情報空間(インターネット)において発明された言葉はすべからく情報的(型にはめこむ)性質を持っている。その点で、ポリコレという「情報的言語」が人々を型にはめこんでいることは当然の帰結だと考えられる。トンポリやマンスプなどの用語にも言えることであるが、情報としての言葉は人々を型にはめこみ、形式的なものに押し込んでいく性質を持つ。ましてやそれが自明の論理として採用された言葉であればなおさらである。ポリコレは人々をポリティカルな存在へとインフォームドしていく。トーンポリシングも同様に、その人の無礼さを批判するべきではないという点において人々をインフォームドしていく。マンスプレイニングも同様である。

 

このような点から、ポリコレなどから派生して先鋭化しているものはすべてインフォームドされたコレクトネス。「インフォームドコレクトネス」と言えるであろう。

今現在起きている問題は情報にたいして僕達があまりにも無防備に接することにより、人々がインフォームドされた考えしか持てなくなっていることなのだろう。ポリコレもトンポリも、そうした情報戦のすえに編み出された「発明品」に過ぎないのである。

弱者男性、女性、被害者加害者なども同様に、すべての物事は情報として処理されることによって誰がどういう「型」を持つ人間であるかという形式に支配されることになる。それは政治においても恋愛においても同じ事が起きている。政治が正しさに支配され、恋愛も形式=ステータスとしての取引に侵されている。ありとあらゆるものが情報として処理され、形式に支配されていく。

インターネットは情報メディアである限りにおいて、人々をインフォームドされる存在として取り扱う。そうした暴力性が潜んでいることは間違いない。

 

情報化社会と言われて久しいけれど、情報とは何であるかをあまりにも考えてこなかったのではないだろうか。僕達は「偽の情報」を批判することは正しいと思っている。疑似科学フェイクニュース陰謀論といった嘘の情報に踊らされないようにと、マスメディアでも教育現場においても言われている。しかしながら情報とはそれが真実であっても危険なものたりえるのだ。いや、真実であるからこそより危険と考えるべきですらある。

真実だからこそ僕達は無防備にそれを受け取ってしまう。真実だからこそ教条的に働く。そして真実だからこそインフォームドされてしまう。ポリコレもある種の真実性を含んでいる。しかしその真実がどのように人々に作用するかこそを注視すべきであろう。僕達はインフォームドされうる存在でありながら個別の人間として生きていかなければいけない。つまり、真実という嘘によってインフォームドされた瞬間に、存在そのものが嘘に塗り替えられる危険がある。

インターネットはつまるところそれを覗けば覗くほどにインフォームドされかねない深淵そのものなのである。

批判なき政府、批判なき五輪、批判なき藁人形論法

こちらのツイート

 

及びツイートに言及されていたwattoさんの記事

www.watto.nagoya

 

これらを読んで、何か、我が国の政治にはもっと根源的な病理が潜んでいるような気がしてきた。

冒頭のツイートの「決断をしたくないだけ」という部分はまさにその通りで、政権はもうずいぶん前から「批判なき政治」によって動いている。

例をあげれば無数に出てくるけれど、代表的なものが前首相である安倍晋三氏の虚偽答弁や基幹統計の改竄及び隠蔽が挙げられるであろう。桜を見る会の領収書や反社会勢力が出席していたかの議論もそうであった。森友加計問題なども典型的である。野党や国民が批判しうる統計、データ、領収書を抹消することによって議論ができない状態とし、批判から逃げ続けてきたのが自民政権の内実といったところであろう。

ようするに無謬でありつづけるために事前のセキュリティーに躍起になっているのが自民政権のそれであった。

思い返すに、このような「態度」は何年も前から顕在化していたのである。今井絵理子氏がものすごく素朴に「批判なき政治」と発言したことがあった。あれは何かの冗談だと当時は思ったものだけれど、今となってみれば、自民政権の態度を如実に表しているものだった。とにかく批判を回避するためであればなんでもする。批判なき政治でありつづけるために統計も改竄するし虚偽答弁もする。政権の行動原理は民主主義ではなく批判なきこと、つまり無謬性に完全に依ってしまっていると、もはや断じてしまって良いであろう。

 

それは今般のオリンピックにおける騒動にも表れている。wattoさんが言及していたように、もはや担当大臣ですら責任者を有耶無耶にするといった形で「批判なき政治」を行っている。

いっぽうで誰がブレーキを踏むのか、あるいは誰がハンドルを握っているのかというと、昨今メディアが伝える情報はこんなのばかりだ。

丸川氏「東京都の考えがまったく聞こえない」五輪医療体制で苦言 | 毎日新聞

 

 

政権が批判を回避しつづけているという「事実」はもはや語るべくもないのであるが、その背景には何があるのかということもすこし考えてみたい。

結論から言えば、こういった政権の行動を暗に支持しているのは、逆説的に今のリベラルだと考えられる。自民党が保守かリベラルかといった右左の枠組みは別に議論があるにせよ、現行、今の社会において支配的なのはリベラル的規範であることは疑いようがない。リベラルはリベラルとして政権を批判する。その批判の作法がピーキーになればなるほどに政権はいかなる間違いをも許されなくなる。そのピーキーさ、神経症的批判が高じると、批判を受ける側もそのピーキーさに付き合わなければならなくなる。たとえば女性に言及した瞬間に批判が飛んでくるようになれば女性に言及すること自体をやめることになる。あらゆる発言に批判がついてまわるようになれば政治的発言の一切をやめ、同時に責任の行方すらも煙に巻くことが「政治的対応として正しい」ということになってしまう。

ゆえん批判というやつは厄介で、批判された側は批判された相手を総体としてとらえてしまう。こういった批判があるのだから、こういった発言も批判されるだろう、あるいはこういう批判もあるかもしれないと想像し、そのすべてを回避するようになる。今の自民党の無謬性もそういった構造に立脚していると言えるであろう。「総体としてのリベラル」はどんな些細な発言でも批判してくる極左集団に見えていても不思議ではない。そのような市民にたいして対応するには「無垢である」ことしか手段はなく、無垢で無謬な政権であることを証明し続ける限りにおいて批判を回避することができる。つまるところ「批判なき政治」とは現在の政治勢力及び市民社会を勘案した方程式における「解答」なのである。

 

このような観点から見るに、現行、今の政治を動かしているのはリベラルであり、旧来の右左といった思想的対立では説明できなくなっている。批判する側と批判を回避する側という、幼稚で、短絡的とも言えるただの行動原理によって動いていると見て差し支えないであろう。自民党は保守政権と言われていたけれど、もはや保守すべきものを保守してはいない。リベラルの顔色を伺い、びびっている風見鶏政権。それが安倍長期政権を見てきたすえの僕の解答である。この国は市民社会も政権も無謬性を頼りにしてしか発言できなくなってしまった。

 

あらゆるところで指摘されていることだが、ようするに「正しいこと」しか言えない社会になりつつある。そのような障壁がありとあらゆるところにたちはだかっている。それは政治の現場においても例外ではない。それが今般のオリンピック騒動によって顕在化した最たるものだと言えるだろう。

コロナとオリンピックは言うまでもなくトレードオフの関係であり、オリンピックを強行すればコロナが広がり、コロナを抑えようと思えばオリンピックをやめるか規模を縮小するしかない。そこに無謬でいられる余地はない。政治的決断が迫られる局面となっているが、自民政権は上述したように無謬性によってしかその行動を決められないので「困っている」と見るのが正確であろう。ただ単に困っているのである。東京都も自民党も責任者すらわからないで困っている。

 

こういった事態にたいして不思議なのは、当の選手達がオリンピックの政治的判断について言及しないことだと思っている。個々人が発言しないことをもって批判するのは無理筋な議論に思われるかもしれないが、当事者たる選手達が批判を回避する無謬性に依っているのだから政府が決断できないのも無理からぬことである。

当の選手達がオリンピックの政治的判断について言及していないので、「選手達の声が聞こえてこないのでコロナの状況を鑑みて五輪はやめることにしました」と決定することも不可能ではない。しかしながら、そうすると選手達の気持ちを勝手に想像して政権を批判する勢力が出てくるので無謬政権としては八方塞がりとなっている。

選手にたいしてこうした書き方をすると藁人形論法であるという批判が必ずくるのであるが、当事者がみな藁人形となって批判を回避している状態こそがまさに問題なのである。

みな藁人形になるしかなくなっている。何かに言及したり、政治的発言をした瞬間に藁人形ではなくなり、藁人形論法で回避できなくなるので藁人形でいるしかなくなっている。そのような事態がまさに、政権の問題でもあり、五輪の問題でもあり、そして政治を取り巻く社会の問題でもある。藁人形たるモブであることが無垢な存在として自由でいられるという身も蓋もない話になっているのだ。

 

このようなことを書いても五輪は「流れ」で開催するのであろうし、無謬の市民及び無謬の政府をつくっているピーキーなリベラルの批判、及びそれに連関した政治的構造は何も変わらない。

言い換えれば、学校などの教育現場で誰も手を挙げて答えることがない日本の原風景そのものだとも言える。

日常というまやかし、ビジョンの不在、現場主義、忘却政権、非戦主義

新型コロナウィルス第4波がきているけれど、一年前からほとんど何も変わっていないのは驚くべきことではないだろうか。医療やPCR検査体制を拡充すべきだというのはずいぶん前から言われていた。クラスター追跡をするのではなく、全数検査に踏み切るべきだというのは第2波が収束したころから言われていたことだが、それも行われていない。民間で検査できるようにはなったものの、行政としてはクラスター追跡と濃厚接触者の検査が主なものとなっている。いまだに医療提供体制及びPCR検査の体制が改善されたとは言い難い状況である。そんな中、大阪では重傷者用のベッドが満床になり、いよいよ医療崩壊という局面を迎えている。これから爆発的に死者数が増えてもなんら不思議ではない。

 

それにしても今のような状態になったのはなぜなのかすこし考えるべきであろう。医療リソースや保健所の人員不足といった、ある意味で現場主義的な意見で思考を止めてはいけないと思っている。このような状況になったのはもっと根深い問題があるのではないだろうか。そう思えてならない。それをすこし考えてみたい。

 

はじめに

「日本ではビジョンを持つことができない」という記事を以前書いたことがあるので紹介したい

plagmaticjam.hatenablog.com

この手の民進党にビジョンがないといった批判を見て常に感じることは党を支持し票を投じる国民のほうにビジョンはあるのかということです。いうまでもなく民主主義は代議制であり民進党は国民を代表しているだけです。

 

たとえば経済大国としての覇権を取り戻すため財政出動法人税を下げ中国やインドなどの勢いがある国に負けない経済力を日本も取り戻そう。といった話は経団連など一部の団体や個人が言っていますが多くの国民は経済問題とは貧困問題のほうを向いていて国家戦力的な経済政策のようなものにはまるで関心を示していないように見えます。ましてや日本をより良い国にするために頑張って働こうなどと言う人は皆無だと言える

 日本国民にはビジョンがなく、その代議士である政治家達もビジョンを提示することができなくなったと書いた。

さらに以下の記事では、現政権は忘却に依存しているとも書いた。

plagmaticjam.hatenablog.com

国難ともいえる緊急事態中に臨時国会を開かずに記者会見もほとんどしないでいつも通り座して国民が飽きるのを待っていただけなのが最大の悪政

 

結論から言えば、政府が「日常」に逃げ込んでいるのが現在の状況だと考えている。

安倍政権の時からそれは変わらない。何か問題が起きた時には答弁をごまかし続け、メディアや国民が「飽きて忘れるのを待つ」。それが自民党の一貫したスタイルであった。記者会見においても、フリーのジャーナリストなどには質問を許さず、記者クラブ所属の記者にだけ質問させ、それにたいして官僚が用意した答弁を読む。政治はそういったお座敷芸を披露し、一応の体裁を保っているように見せつつ、とにかく国民が忘れるのを待つ。そういった「日常性」に政治は逃避しつづけてきた。それがここ10年余りの自民党の内実であろう。そうこうしてるうちに新型コロナウィルスの感染が広がった。コロナに対してもその手法は変わっていない。国民やメディアがコロナに飽きるのを待つという驚くべき無能さを発揮している。とにかく日常を継続しつづける事が大事だという保守的な政策ばかりである。検査体制の拡充などコロナと闘うような政策はほとんど行ってこなかった。当然ながら、日常を続けることはとても大切なことである。しかし、それと並行して政治が戦時下における体制を確保しておくのは相反するものではない。それをほとんど行ってこなかったと、もはや断じてよいと僕は思っている。すべてを日常として回収しようとしている。政府も、そして国民もである。

こういった問題は、元の元をたどれば、戦後焼け野原になった国に日常を取り戻そうといった歴史に由来するものだと思っているが、その意味で僕たちは敗戦の記憶をいまだにひきづっているのかもしれない。日本では平和のもとの「日常」を天下国家の在り方として掲げてきた。平和主義を信奉している国民が数多くいる。僕もそのうちの一人だという自覚はある。しかしながら、日常が過剰に浸透した結果、平和主義が高じて非戦主義となり、ついには戦うべき時にも戦えなくなったのが今般のコロナ禍にも表れているのではないだろうか。そう思えてならないのだ。その意味で、自民党はそれを象徴しているに過ぎないという見方もできる。

思想的にはそういった枠組みでとらえることができる。とはいえ、私達の平和思想とはまったく無関係にコロナは広まっていく。非戦主義も考えようによっては美徳であるけれど、コロナウィルスにたいしては意味をなさない。戦う体制を確保しない限り、ただただ広まっていくだけとなっている。

もちろんこのような書き方をすると、「国民は自粛などをして戦っているではないか」といった批判がきそうである。もちろん戦っている。しかしそれは防御に徹したものになっている。本来、国民が自粛などをして戦っている間に、政府は補給線を確保したり戦略を練ったりする必要があったけれど、ほとんどなにもしてこなかった。ようするに政府が戦わない以上、国民がどれだけ戦っても無意味だということを繰り返してきたのがここ一年の実情だと言えるだろう。

たとえばPCR検査の体制を拡充すれば、陰性者だけで経済を回すといったことも(完全なものではないにせよ)不可能ではなかったはずである。あるいは医療提供体制を整備すれば一律の自粛ではなく、やむを得ず深夜営業する店などに許可証を発行するなどもできたはずである。

しかし僕たちはいまだに統制が取れないまま「一律に無策の自粛」をさせられている。僕たちがこのような状態にあるのは、政府がその戦略を組んでこなかったからだと言わざるを得ないだろう。そしてその政府の無策と連動するものが上記記事にも書いた「ビジョンの不在」だと言える。ビジョンがないので戦略が組めず、平和や日常といった幻想に逃げ込んでいる。

 

コロナが流行しはじめた去年3月に、孫正義さんが100万人にPCR検査をするとツイートしたことがあった。

 当時、このツイートにたいして「患者が殺到し、医療現場で感染が拡大する恐れがあるからやめてくれ」という批判がほとんどだった。振り返るに、この騒動はとても象徴的なものだったように思い返すことができる。

 

コロナにたいしていかに戦うかというビジョンを示した孫正義さんであるが、現場の意見によって封じられてしまった。現場や当事者の意見を重く見すぎて、ビジョンを掲げること自体が難しくなってしまったのが今の日本なのであろう。

現場の意見はとても大事なものであるけれど、それとはまったく別に、我々はどこに向かって進んでいくのかというビジョンを持つことも大事である。孫正義さんのツイートは当時からすれば絵空事に写ったかもしれないが、実現不可能なビジョンでもそれを提示することには意味がある。どこに向かって戦うのかわかれば、目的意識がはっきりとし、皆の中に共通する認識が生まれる。そこではじめて、「いかにして戦うか」といった戦略を話しあうことができる。

もちろんそのビジョンが実現可能かどうかといった批判はされるべきであるけれど、現場の声を聞き過ぎた結果、いかなるビジョンもたてられなくなっているのが現在の自民党及び政府全体なのではないだろうか。現場や当事者の意見だけを吸い上げると、保守的な対策しか打てなくなってしまう。それは現在の状況を見れば明白である。オリンピックもやる、コロナ対策もやる、日常も日常として続けるという「保守的な決定不能」に陥ってしまったのは、政府がいかなるビジョンも持っていないからであろう。

こういった停滞から抜け出すためにもビジョンは必要だと言える。誤解を恐れずに言えば、そのビジョンが実現可能かどうかは二の次でしかない。そのビジョンが正しい方向に人々を向かわせるのかどうか。それがビジョンが果たす役割なのだから。

ビジョンに基づく「決定」を下すのが政府の役割であるけれど、ビジョンもなければ決定する能力もない。ゆえに後手後手の政策しか打てないでいる。そうして何もかもが日常として回収されてしまうのである。

 

こういった現場主義によるビジョンの封殺は至るところで見られる。最低賃金を上げれば中小企業が潰れるなどもそうである。消費税法人税、移民政策など至るところで岩盤規制とも呼ばれる「日常」が立ちはだかっている。あるいは、一部のハラスメント問題なども被害者が正しいという当事者性、現場主義によって議論ができなくなっている側面も否定できない。

とにもかくにも現場の声を聞きすぎた結果、現場を回すことがすべてとなり、ビジョンを示すことができず、戦略が組めなくなっている。それがすべてを固着させてしまっている。そのような状態で、原理的に現場の声を無視せざるを得ないビジョンを政党が掲げられるわけがないのである。

我々はいつしか国の在り方を考えることをやめた。この終わりなき日常が漫然と続いていく。危機が来たらそれをほとんど無視してやり過ごす敗戦作法は政府の嗜癖にまでなってしまっている。

日常によって危機はまやかされ、政権はそれに依存し、国民が忘却するのを座して待つ非戦主義という空気が支配している限り、ビジョンを掲げ戦うことは不可能となっている。

そのような現実において我々にできることはただただ頭上にコロナという爆弾が降ってこないことを祈るだけである。

ちょうど、1945年あの日の東京のように。