メロンダウト

メロンについて考えるよ

殴り書き

はてな民らしくないことを言えば、オリンピックには特に反対ではなかったのであるが、五輪を取り巻く政治の混乱を見ていると反対したくなるのもよくわかるようになってきた。五輪に反対するのは正常な判断とすら言えるだろう。自分は保守的な側面があり、自民党の言うところの国威発揚もわからなくはないし、スポーツの力みたいなものも信じているので、ある意味ではゆがんでいる。そうした理解でいたので最近は五輪に言及することはなかった。

しかしながらもうそんな段階を超えてきている。自民党を筆頭に政治が空転しつづけている昨今の状況は国民として憂うべき状況にある。
自民党は国家の主体性を失い、IOCの言うがまま五輪を開催する運びとなり、国民生活との非対称性が浮き彫りになっている。
立憲民主党は「枝野ビジョン」に代表されるように、ネットリベラルに盲従し、理念だけを追求するファッション政党に見えている。
都民ファースト小池百合子マキャベリストっぷりやプロパガンダ的手法が見え隠れする。
公明党は相変わらずコバンザメであり、共産党は反権力団体、国民民主党は何やってるのかよくわからず、N国は遊んでるだけで、来たる選挙でどこに投票すれば良いのか今から迷っている。現状ではれいわ新選組に入れようかと思っている。

これまでも「投票する政党がない」と言われてきたわけであるが、これほどまでに投票する政党がない状況はかつてなかっただろう。消極的にすら投票したくないのだ。
今の自民党の混乱ぶりを見ていると、民主党政権時に「政権担当能力がない」と批判されていたことを思い出さざるを得ない。比較するに今の自民党こそ国民や法律を無視した政策を打ち続けている点で政権担当能力がないどころか、政権を担当する「資格」がないのである。
最近のニュースだけ見てもロッキンJAPANを中止する一方で五輪は開催したり、立法という手続きをすっ飛ばして酒の卸そのものを中止している。国民主権たる日本にありながら理念も法律も無視している点でもはや何をしているのか、国民から見れば意味不明だとすら言えるだろう。実際は選挙のためであったり、ロビー活動を行っている関係団体の顔色を伺っているのであろうが国民からすればそんなものはどうでもいいのである。五輪を開催すれば国民は熱狂して自民党を見直すという算段があり、それが選挙に有利に働くという目算をしているのだろうが、この緊急事態に「国民生活との非対称性を無視して五輪を強行したこと」を、すくなくとも僕は絶対に忘れない。
昨今のニュースだけを見てもそうであるが、コロナが流行して以来、自民党が「国家や国民のなんたるかを何も考えていない政党」であるかが次々と露わになってきた。自民党は国家の歴史やありかたを守るというスタンスで保守政党と見られているし、自分もそのように考えていた時もある。しかしながらそうした見方をすることはもうないだろう。国民のことも無視し、国家の主体性も失った政党に何を保守できるというのか。記者会見すらもまともにやらず、やったと思えば記者クラブで固めてすら壊れたラジオみたいな状態で話す始末だ。端的に言ってもう自民党は政党として見限っても良いほどの愚策をこのコロナ禍において出し尽くしてきたと、個人的には思っている。

 

五輪をやりたければそれでいいのだ。しかし、やるのであればそれ相応の説明を国民にすべきであり、玉虫色の解答で煙に巻いて良いことではない。国民はこの一年、ありとあらゆる行事を自粛してきている。コロナの感染者数においても飲食店をはじめとして「法律を無視した政府の要請」に従って自粛してきた。その結果、これほどまでに少ない死者数で抑えられているのだ。そうした状態において政府が「なんの説明もせずに」五輪を開催して良いはずがないであろう。そんな状況では、自分のような五輪を楽しみにしている人間ですら反対したくなってしまう。というか今は明確に反対に転じてきている。なにがしかの説明でなくても五輪にたいする情熱のようなものが政府から発表されるかと思ってきたが、どうやら単に「無能だから止めることができない」だけのようである。五輪中止の賠償金をIOCと交渉する能力もなく、一度走り出したら止められない列車の「乗客」へと、我が国の政権は成り下がってしまったのだろう。

思い返せば一事が万事この調子であった。菅政権だけではない。安倍政権の時からそうだった。国会ですら答弁を煙に巻き、内閣に戻れば身内の論理で決定し、責任だけはアウトソースし、赤木さんが自殺した。桜を見る会もそうであったし、基幹統計の改竄も「自民体質」がよく表れていたと思い返すことができる。保守と言いながら保守していたのは党内部の権力と関係する団体だけだったのだ。それを長らく保守と言い、勘違いさせられてきたのだから、失われた30年とはよく言ったものである。そしてそれを支持してきた国民も国民であろう。
もう自民党には政権を担当する「資格」がないのである。ならばまだ「能力」がないと言われていた旧民主党のほうがマシだった。

かと言って今のネットリベラルが支持している立憲民主党に入れる気にもなれない。逆の意味で暴走する危険があると思ってる。自民党は現実にいる仲間の論理で動く点でなんの理念もない政党であるが、立憲民主党は今の支持層を見る限りリベラルの言うところの理念だけを暴走させる可能性があると思っている。フェミニズムやリベラルがそれにあたり、そちらへの批判はブログに幾度も書いてきたので過去記事を読んでほしいが、人間の存在を無視した理念を叫ぶ人々を支持母体に抱える政党を政権に据えるのは賛同しかねる。

陳腐な結論を書くと
もはや支持しうる政党がない。それだけは確定的に明らかである。

91年生まれ反省会について

91年生まれ大反省会というツイートが炎上している。91年生まれは何も考えてこなかった(社会運動は危険、フェミニズムはヒステリー)から反省して毒を出していこうといった旨の発言。主語がでかいというのもあるし、社会運動やフェミニズムを見直すことでリベラルに合流しようとも読める点で批判されている。

 

 


このツイートを最初に見た時、いいねを押した。しかし冷静に見てみると「今ある問題を自虐的に語ることで世代に還元させ、誘導しようとしてる」ようにも見える。現行支配的な多様性やLGBTなどを念頭に置きつつそれを笑っていた僕達は間違った世代だったと言うのは反発を招いて当たり前ではある。
いずれにせよ賛否両論あるツイートなのだが、「何も考えてこなかった」というツイートの趣旨自体はよく理解できてしまうのだ。

あの時あの時代、僕達は何を考え、何を考えていなかったのだろう。

自分は91年よりもすこし前の生まれではあるけれど、かなり近い世代ゆえ、時代感覚としては通底しているものがあると思う。フェミニズムはヒステリー、社会運動は危険という空気は存在していた。政治への強烈な忌避感があった。政治について話題にすることを避ける空気はいまだに支配的であり、自らの主張を公に語ることは相応の胆力が必要とされる。若者であった僕達はとにかく政治的なものを回避しようと努めていた。それがあるべき態度、非政治的な政治性、無謬主義とも呼べる自己防衛だった。
自分は政治経済学部出身で、政治について語る機会も当時からあったけれど、個人が思想を持って主張することは稀であった。ディスカッションというテイのもと、借り物の言葉で議論をしていた人が多かったように思い返すことができる。自分自身そうであった。しかしながら、そういった「仮の議論」をしたところで実のところ何も考えてはいなかったのだ。こういう発言にたいしてはこういう主張で返すなどのテクニックだけが上達し、実際の社会や自らの実存は棚上げになっていた。もちろんそうでない人もいたけれど、自分自身に関して言えば、政治についてなど「実のところ」は何も考えていやしなかった。マルクスがなんであるか、ベルクソンがなんなのか、ウェーバーがなにを言ったのか、などどうでもよく「『鉄の檻』にぶちこむぞ」というワードだけが流行っていた。
そういうバックボーンの無さ、浅さのようなものはこのブログにも表れていると思うし、見抜いている人は見抜いていると思う。自分が政治や社会にコミットしだしたのなど、ここ数年の話で、学生だった当時から社会運動を考え、能動的に批評に触れていた人間と自分では雲泥の差があるのだ。そのくらいは自覚している。

とはいえ、僕のような何も考えていない学生は珍しいものではなかった。政治や社会の在り方を大真面目に議論する人はどちらかと言えば変わり者であった。政治系学部にいてさえその有様で、他学部の友人知人で社会運動にコミットしている人などほとんどいなかった。人づてに聞くこともほぼなかった。マルチや宗教にはまる話のほうが多く聞いたぐらいだ。そのぐらい政治や社会運動は学生にとって蚊帳の外のものとして扱われていた。これは僕の観測範囲の話に過ぎないので一般化するわけではない。当時から政治や批評について話している人ももちろんいた。しかしながら自らの学生時代と照らし合わせると、「若者は政治について何も考えてこなかった」という冒頭ツイートの趣旨は、すくなくとも僕にはとてもよくわかるのである。その後、僕はとあるきっかけで社会や政治について考えるようにはなったものの、一般論としては生活や実存に係る緊急性がない限り、政治について考える動機を持ちようがないのである。


冒頭ツイートのように世代を一括りにして「反省せよ」と言うべきではないが、若者が政治について何も考えてこなかったのは投票率を見ても明らかである。実際問題、学生のころには政治を必要としないのだから当たり前ではある。社会がどれほどの戦慄を持って自らの生活を脅かすことになるかなど、知る由もないのだ。

学生時代にある政治性とはすなわち「人格」でしかなかった。当時はそれが「オネエを笑う」等の保守的なものであったのだろう。

今の若者はリベラル的な物の見方をしている人が多いように見えるが、それは政治というよりも人格レベルでの話となっている。差別は人格的にいけないものだとされている。人を傷つけるから駄目だという「人格的なべき論」で語られることがほとんどだ。
政治を政治そのものとして捉えることはほとんどなく、ましてや公共的な意味での社会のありかたを考える人は今ですら稀だ。それぞれの時代ごとに支配的な「人格」はあってもマクロな政治に関して考える人は少ないのであろう。自分がそうであったように。

全共闘や東大紛争があった時代のほうが特殊だった。ゼロ年代以降、一般的な学生が直接の政治について何も考えてこなかったのは間違いない。考えていたのは特殊で意識の高い人間だった。

冒頭のツイートに戻り、「反省して毒出し」という部分に言及するのであれば、僕達は「何が毒か、何が薬か」すらも考えてこなかったのである。「これは毒、これは薬」だと、ただ教育されただけだった。今、リベラルが唱える反差別が毒に転じかけているようにどのような政治がどのような効果をもたらすか、どれが毒か薬かを考えるには、僕がそうであるように、知識も経験も圧倒的に足りないのだ。反差別を掲げた結果どうなるのか、正義を掲げた結果どうなるのか、国家を掲げた結果どうなるのか、すべての政治性を回避してきたゼロ年代以降の僕達は、そのほとんどを実のところは何も知らないのではないだろうか。

「本当の意味で批判的な態度」について考える

東さんのツイートがはてブにあがっていた

 

右左という枠組みが変質しており、リベラルや保守が語義そのままの意味ではもはや捉えられなくなっているのだと思う。リベラルという言葉が賞味期限切れなんだろうなという印象を強く持つ。東さんが言うところの「リベラルが富裕層で、ナショナリストが庶民」というのは枠組みとしてはどこか間違っているような感じも受ける。

アメリカ西海岸などを念頭に置けばバラモン左翼と呼ばれる人々が富裕層で、ラストベルトのナショナリスト労働者が貧困層という枠組みは適用できても日本ではその限りではなかったりする。富の偏在という観点から言えば日本ではストックの格差のほうが大きく、土地や戸建てを持っている高齢保守層が富裕層としては分厚く、世代間格差を生んでいる。アメリカではリベラルが富裕層であり、日本では保守が富裕層である。経済的な状況で右左の枠組みをとらえるのは少々無理があるように思う。経済的状況はそれぞれの国の歴史に根差した結果に過ぎない。

「リベラルの運動が金になる」「リベラルが支配的な価値基準である」ことはその通りではある一方、経済的な格差と比例するかと言えば、現状はその限りではない。もちろん東さんの言うことは「これからはリベラルしか経済的には勝てない社会になる」という意味であり、アメリカのような先進国のありかたを日本もなぞるようになるだろうと言っているのだとは思う。

 

未来予想図としてはリベラルしか社会の中で認められなくなり、強権的な保守思想やマチズモは淘汰されていくだろうことは想像に難くない。どころかそれはすでに日本でも起きていることで、そのような社会である限りそのような経済になることもおよそ間違いないのだろう。その点で東さんのツイートは未来予測としてとても的を射ているように思う。

 

それよりも一連のツイートで気になったのが「本当の意味で批判的な態度」の部分だった。本当の意味で批判的な態度というと抽象的に過ぎるのであるが、リベラルと資本主義が結託し、世界を塗り替えていく限りにおいて、本当の意味で批判的な態度はものすごく難しい話のように感じてしまう。僕達はこれまで、資本主義にたいしてはリベラル的な公共性によって反論してきた。政府による再分配は公共性のうえにたつ概念であったけれど、リベラルと資本が結託すると公共性すらも資本のものになってしまったのが21世紀の条件なのだ。

どういうことか。たとえばアメリカのリベラル富裕層は恣意的な再分配をはじめており、資本家が再分配する人々を選んでいる。国に税金を払い国民に再分配するよりもアフリカの貧困層に分配するほうが功利的に正しいという考えで分配が行われており、公共性はグローバリズムに上書きされている。これは労働に関しても顕著に表れている。日本国内の実質賃金が下がり続けていることは有名であるが、多国籍企業後進国に労働力を求めており、日本の非正規労働者の賃金が省みられることはない。なぜなら現地の労働者の賃金は日本の非正規労働者よりも安く、生活も苦しいため、現地に雇用を生み出して発展させるほうが自国民の困窮よりもプライオリティーが高いからだ。それは功利的に正しい判断であり、同時に資本家にとっても都合が良い。

資本を持つ者が同時に正しさを振るい、それにたいして国民が反論できなくなっている。かわいそうランキングみたいな話ではあるが、資本主義がリベラルと結託した瞬間にそれは公共性を超え、独善的な振る舞いをグローバルな正しさのもとに許してしまうのだ。事実、貧困国を支援する富裕層は称賛を浴び、正しさと資本を同時に得ることができる。そのような構造になっている。

そして僕達はそれに反論する術を持たない。自国民よりもアフリカの貧困層を支援するほうがより多くの人を救えるのだから。反論するにしてもせいぜい「ちゃんと税金を納めよ」と言うぐらいのものである。以上のような状況なので、保守の側はリベラル及び資本主義へのカウンターとして国の権力を強化するように投票することで、トランプのような強権的な指導者を迎え入れることになる。正しさと資本をリベラルが独占した状況において自分達の生活を守るためにはナショナルな保守思想に投票するしかないのである。

日本ではリベラルのほうが金を持っているとは言えないのでアメリカのような状態にはまだなっていないけれど、これからアメリカの二の舞を踏むことになるのは充分に考えられることだろう。

 

政治的な批判はある程度パターンが決まっていた。資本主義にはマルクス主義で反論したり、保守にはリベラル、リベラルには保守、グローバリズムにはナショナリズム軍国主義には憲法9条云々

しかし今はこのパターンがだんだん壊れてきている。上述したように資本主義を正しさの文脈で批判することは不可能になった。社会を取り巻く条件が変わったので思想地図そのものが前提として成り立たず、どこに何があるのかよくわからなくなっている。コロナ禍においても保守勢力のほうが自由主義になっていたり、リベラルがナショナリストのように振る舞っていたりと思想的な枠組みで捉えることがほとんど不可能な時代になってきている。自分自身も自分が保守なのかリベラルなのかよくわからない時がある。

こうした状況において「本当の意味で批判的な態度」とはなんなのだろうか。すごく大事な問いであると思う。コロナで明らかになったように、リベラルを批判する時に使う保守の言葉はもうリベラルを批判していることにはならないだろう。リベラルのほうが自由を手放しているのだからむしろ保守のほうが自由主義たりえたりする。保守を批判する時にも同様にリベラルの言葉は無力になっている。

それぞれが自称する思想と旧来の思想にはズレがあり、批判しているように見えても批判になっていないことがほとんどで、そういう状況の中ではそれぞれが独自概念をツギハギした思想を形成することになる。反安倍と言わないやつはリベラルではないみたいな、ほとんどなんでもありの、思想とも呼べない「勢力」に政治が吸収されてしまっている。リベラルが時に自由を放棄したり、保守が自由を標榜したりと、カオスな状況だ。唯一明らかであるのはお互いがお互いを敵として見なしていることぐらいであろう。

 

そのような状態で言葉を投げかけても意味を持たず、どのような言葉を持ってしても彼らが敵だと見なせばネトウヨやパヨク扱いされることになる。リベラルをリベラル的に批判したところで右翼扱いされるのだ。本当はかなり近い思想を持っているにも関わらずである。

このような思想的カオスが何にとって都合が良いのかといえば資本主義にとって都合が良いだけなのだ。保守の倫理観を解体し、リベラルの公共性も解体した結果として資本が自由に振る舞うことができるようになり、資本の論理が正しさの論理と合致した世界ではまさに「動物化するポストモダン」とも言える状況が現れることになった。

頑健的な保守による貞操観念という倫理を崩壊させ、女性の流動性をあげることは資本にとって都合が良いことであり、正しさを解体すれば資本を持っている男性に女性が集まってくる事態となった。公共性を解体すれば資本が恣意的に再分配を選択することで貨幣の動きを事実上コントロールできるようになった。

思想が意味をなくした瞬間にありとあらゆる側面で資本主義が支配的となり、その結果として人々はより動物的になっていく。

そうした状況の中で「本当の意味で批判的な態度」は果たしてあるのだろうか。

僕達はなんでも批判できる。自分のような素人でも政治評論できるほどにカオスな状況である。なにをも批判できてしまう。そして、それと同じかそれ以上に、なにを批判しても批判として成立しない。そういう虚無さのようなものがずっと政治には張り付いているのだ。こうしてブログを書いてても誰にたいしてなにを言っているのだろうと、思うことがある。本当の意味で批判的な態度というのを考えるに、態度だけならばいくらでも批判的になれてしまうが、「本当の意味の批判」というと甚だ難しい時代を生きている。そんな気がしている。