メロンダウト

メロンについて考えるよ

事実確認的発話と行為遂行的発話の相克

言及はしない(この辺境ブログを読んでいる方であればおよそ想像がつく話題なので)けれども、言論の価値は局所的で当然だと思うんですよね。

 

言論は啓蒙的であるべきだという立場は言論の価値を高く見すぎている気がしてならない。

ごく一般的に人には生活があり、生活による蓋然性があり、その蓋然性の中で想像できる範疇でしか物事を捉えられないように思う。仮に真理や目指すべき理想像、あるいは幸福の形があったとしても、それが夢や幻想に見えるぐらい「彼の実存」に蓋がかぶさっていれば啓蒙はそれこそハラスメント程度の意味しか持たない。

仮に言論がなにがしかの本質をとらえたとしてもその本質をインストールできるだけの容量(実存)を持っていないとキャパオーバーであるどころか、動作が重くなるだけなので有害だと言える。

その意味で啓蒙が機能するのはそれを受け取ることができる人に限られている。よく「助けることができるのは助けられる準備のある人だけ」と言われるのと同じなのだろう。助けられる準備がない人にどんな物資を送ってもから回るだけなのは言論も同じではないだろうか。

まず彼には彼の実存がある。そして彼に本質が与えられるのは「彼の実存がどこにあるのかを彼自身が捉えてから」なのだと、個人的にはそのように思う。その意味で他人、つまり言論にできることは彼がどこに置かれているかを明らかにすること、及び彼の背中をすこし押すことぐらいしかないのではないだろうか。

彼がどこに行くのかを心配し、言論として矯正しようとすることは、はっきり言って他人のやることではない。

 

付随して言えば言論には「事実確認的発話」と「行為遂行的発話」のふたつがある。

事実確認的発話とは弱者男性論やフェミニズムなどに見られるような「この世界の不都合な真実」を明らかにするというタイプの言論がそれにあたるかと思う。

行為遂行的発話は道徳的啓蒙やマインドセットなど、その発言がどのような効果を人にもたらすかというタイプの言論だ。

 

「事実確認的発話が彼の実存や社会環境を明らかにすること」であれば、「行為遂行的発話は彼の背中を押すこと」だと言える点で両者の役割はそもそも違うものであろう。どちらも必要なことであるが、しかし両者は違うタイプの言論であり、一方の立場から一方を批判することは論の立て方としてはうまくないと個人的には思う。

事実確認的発話が行為遂行的にはネガティブな効果を及ぼすという批判は成り立つように思われるが、しかしそれは教条主義的な態度であり、むしろ自由とは反することになるのではないだろうか。言論には順序がある。あるいは届く言葉は人によって違う。

事実確認的発話が仮にネガティブな効果をもたらそうとも、事実を確認することは「彼の実存がどこにあるかを確認する(助けられる準備を整える)大事な作業」であろう。その作業を経て行為遂行的発言、つまりは啓蒙が機能するようになるのだと思う。

 

事実を確認することが慰めにしかならないという批判も同様のことが言える。自身が慰められている存在なのだという言論に触れ、事実をまず確認する。そして自身の立場を明確にすることで逆説的に啓蒙を受け入れる礎になる。慰めは悪いことではないし、啓蒙も悪いことではない。それは決して衝突したりしない。ただ人にはそれぞれ「必要となる言論が時と場合によって違う」というだけなのではないだろうか。

 

ようするに実存は本質に先立つというやつだ。ここではサルトルの言うところの「実存は本質に先立つ」と意味が違うので「生活は本質に先立つ」と言ったほうが良いのかもしれない。

ごく普通に言って人はそれぞれ違う生活を営んでいる。みな生活がまず先にある。けれど同時に同じ社会に生きてもいるので当然ながら重なって共鳴しあう部分がある。それを事実確認的に照射するのは単なる「同語的生活反復」だという点から慰撫だというのはその通りだと思うけれど、しかし慰撫ぐらいしか言論にはできないのではないかと、ニヒリスティックに言えばそんなことを思うのである。

その不信感をもって言論と対峙することで慰撫が慰撫でしかないと認識することができる。と同時に、発情すれば人間は自慰行為もするよなと切り離すことが可能になり「自らの時間」に帰ることができるのではないだろうか。

自身の実存はあくまで自身のものであり、言論はただ適時利用されていくだけなのだろう。

私のような「言論人ではないけど言論に興味がある生活人」として、おそらくはそのくらいがちょうど良い態度だと思わないでもない。

友敵理論を現代風に考えてみる

一般的なことを言えば僕たちは「敵」を想定しなくなった。誰かを敵だと認定することはまともな人間のすることではないという了解が市民社会に広く浸透している。

インターネット上では敵を想定して騒ぎ立てる論争が日々行われているものの、そうしたものに参加している人自体がマイノリティーであることは明らかであろう。

では誰が社会におけるマジョリティーであるかと言えば、投票率を見る限り、なんらの政治的主張を持たない人々、つまりノンポリである。

 

ネット上では政治がタコツボ化してAV新法などがことさら重大なものとして議論されていたりする一方、実際の投票に目を向けて見ると、政治に関心がある人は驚くほど少ない。それははるか昔から言われていたことで、今更掘り返すほどのことではないと思われるかもしれない。そもそも民主主義とはそんなもので、全員が政治に関心があるという事態のほうが異常ではあるだろう。

しかしこの「良くも悪くも理解がある市民」が政治を放任するとマイノリティーがマジョリティーにとって代わることになる。そしてその土壌の上にマイノリティーがマジョリティーとして振る舞うことが可能になり、今日の「マイノリティーの政治」が行われているといった側面があることも無視できない。

以上のような話を書くと、良き市民は「政治を市民の手に取り返すべきだ」と考えるかもしれない。しかしここで書きたいことはそのようなことではない。

 

市民が政治を放任できて自身の生活や趣味などに生きることができるのは理想的な社会であり、それ自体を否定すべきではないだろう。政治が消えるというのはある意味では正常な社会だとも言えるが、しかし政治が消えるとどうなるのかはあまり語られない。それを書いていきたいのだ。

 

 

・政治が消えた時、友と敵も消える

そもそも「政治が消える」とはなんだろうか。

投票をしなくなる、社会のあり方を考える人が少なくなるなど様々な言い方ができるであろうが、最も根本的なことを言えば政治が消えるとは友と敵が消えるということが言える。

 

友と敵とはかなり陳腐化した言い方で、政治的な議論に参加している人でさえ「友と敵に分けることは褒められた態度ではない」と言う人がほとんどだ。しかし政治とは原理的に友と敵を分ける行為であり、友と敵がいないものをそもそも政治とは呼ばないと言った学者もいた。

それがナチスの御用学者として知られるカール・シュミットであり、シュミットは『政治的なものの概念』の中で「友敵理論」という政治理論を展開している。友敵理論とは上述した通り、政治とは原理的に友と敵を分ける行為であり、その「決断にのみ政治」が宿るというものだ。シュミットは反自由主義論者として知られており、人間の善性をもとにした自由主義は政治的に機能しないとして国家構築の理論から自由を排除し、性悪説をベースに国家を運営するべきだという思想からナチズムの肯定に至った。いわゆる極右である。現代的な価値観で言えばこれは全体主義教条主義の肯定であり、到底受け入れられるものではないだろう。

しかしシュミットの帰結はともかくとして、「政治とは原理的に友と敵を分ける行為である」というのは一考する価値があるとして、友敵理論は政治を語る場でその用法を問わず広く使われる言葉になっている。

 

シュミットの友敵理論をベースに考えるに、上述したような日本のノンポリ化は政治という友敵の論理自体が実際の人間関係とはかけ離れていることにあるだろう。僕達は普段、敵を想定して人間関係を築いていない。

しかしその日常とは裏腹に政治を引き受けなければならない。それが民主主義社会の矛盾であるのだ。

 

実際、政治を語る人間はめんどくさい人間として見られることがほとんどである。日本にあっても政治と宗教の話はしないことが処世術として広く知られている。

それは政治が友と敵を分ける行為であることに立脚している。言論などの表現活動をしている人も社会にたいして言いたいことがあったり、問題があるとして解決しようとする人がほとんどであるが、それはつまるところ政治に参加している人には「敵」がいるということだ。それゆえ、敵がいなくなった瞬間、政治から離れみな生活に戻ることになる。

政治的恋愛論ミソジニーフェミニズムを標榜していた人が彼女(彼氏)ができた瞬間に言論から離れていったりするのは、単に敵がいなくなったからだけだったりするのではないだろうか。

ようするに政治とは敵をつくる(敵がいる)行為であり、政治に参加する人がマイノリティーになることは、社会が危機的状況でもない限り、たいへん自然なことだと言えるだろう。政治が消えるとは皆が自由に生きている証であるため、望ましいものである。

 

 

・友敵理論の逆説

しかしながら友敵理論を逆説的に言えば「政治とはそもそも敵を持つ人々だけが参加する点で原理的に先鋭化してしまう」と言える。

政治にはそのような宿命がある。社会が平和になり、政治が無用の長物となれば、政治にコミットする人は少なくなる。友敵理論的に言い換えれば政治が消えた瞬間に、ノンポリがマジョリティーとなり、極端な敵を探すマイノリティーの「過ー政治性」に政治の意味が変質するようになるのである。

平和になり、自由な社会をみなが生きていて、政治的な問題が小さくなると市民は政治から離れ、みながノンポリ化する。

それと同時に敵にたいして攻撃しやすい場所、つまりインターネットでは政治(友と敵)が前景化することになる。

インターネットは共通の敵を持つ友を見つけやすいツールであり、そのために政治化、もとい友敵化しやすい場所なのであろう。ネットで政治が先鋭化しやすいのは単にそれだけの理由だったりするのではないだろうか。

 

まずその前提を踏まえ、政治を政治(友敵)として捉えることでおざなりな包摂意識から脱し、敵には敵の言い分があると知り、そもそも分かり合えない存在として「敵を敵として認める」ことではじめて政治的な調停は始められるのではないだろうかと思うのである。

しかし今、政治的な議論の場で一般に言われているのは「友と敵に分けるな」というものである。しかしそれは政治という原理からは矛盾しており、ほとんど意味がない批判なのも事実だ。政治が原理的に敵を想定する場所であるという観点から見れば「敵を想定するな」という批判は「政治から離れろ」と言っているのと同義であるからだ。それは単に議論をひっくり返しているに過ぎないと言える。もちろん場合によってはひっくり返すことも必要であろうが、シュミットはその非ー政治性・自由主義にたいして以上のようにも書いている。

自由主義が、国家および政治に対して僅かに認める価値は自由の諸条件を確保し、自由の妨害を排除するという一点に局限されるのである

 

政治的問題を抱えた個人にたいし政治から離れろというのはほとんど無意味な批判であるし、あるいは政治にコミットすることが劣等であるかのようなスティグマを植え付けることにもなりかねない。

自由な社会が実現し政治的問題が矮小化していけば、政治に参加する人がマイノリティーとなり「自由の側から差別される」という事態を引き起こす。

そして自由がいきすぎると政治と社会が分断する。これをどうするのかはほとんど語られることはない。

 

 

・政治の言葉と社会の言葉

おおざっぱに言えば今、僕達は政治を語る時に「社会の言葉と政治の言葉」のどちらを使って政治を語れば良いのかよくわからなくなっているのであろう。

ある人は社会の言葉を使い、自由で開かれた議論が正しいと考え、友敵という政治的枠組みそのものを消滅させようとしている。一方では政治を友と敵に分けて打倒することに躍起になっている人々もいる。

前者(社会の言葉を使う人々)は良心的な市民として認識されがちであるが、後者(友と敵に分ける人々)はエコーチェンバーの住人として批判されるのが常である。しかし前者もまた政治が友と敵にわけるものだという原理を無視して「過ー社会的」に政治を捉えすぎているとも言える。それもまた問題であろう。

 

そもそも社会の論理と政治の論理は必ずしも重なるものではない。社会生活では合わない人(敵)がいれば単に離れていけば良いが、政治ではむしろ敵と共存するための言葉を紡がねばならない。

その政治と社会の乖離は社会が自由になればなるほど大きくなっていく。ノンポリが増え、皆が社会の言葉を使うようになると政治的な問題が出てきた時「単に離れる」という政治的にはあまり意味のない言論が支配的になる。言い換えれば社会から政治をひきはがそうとするのだ。

そして最終的には社会の側から政治を隔離しようとし、なんらの社会生活を妨害してはならないという一点に政治が収斂していき、なにも語ることができないような無謬性に政治が閉じられていくことになる。

それがつまりここ数年の日本で散々言われてきた「失われた○○年」なのではないだろうか。まがりなりにも日本は民主主義によって成り立っており、政治が沈黙するのは社会が政治に沈黙するよう要求しているからである。

このような自由が引き起こす無謬性を突破するため、シュミットは政治には決断が必要だという、自由とは別領域で展開する政治性を唱えたのだ。そしてそれは間違っていた。しかし間違っていたとしても自由が引き起こす問題が解決したわけではない。

僕達は相変わらず自由に縛られている。

 

 

・政治を引き出しにしまうということ

これが現代、自由主義社会に敷衍した時の友敵理論の意味であり、その政治性を飲み込んで政治を捉えなければ政治の意味が攪乱してしまう。

政治とは敵がいるものである。同時に、政治とは友と敵を分けるものであるため、攻撃的な場所でもある。

 

その前提のうえで政治にコミットしなければ政治と実存の境目がなくなってしまい、政治的攻撃性に実存が囚われてしまう。それが最も危険なことであるはずだ。

政治が友と敵に分けるものである限り、攻撃は必要となるけれど、しかしそれはあくまでも政治的なものであり、自らの人格と連結させる必要はまったくない。むしろ切り離して適時使用すべきものが政治的攻撃性なのであろう。

ごく普通に言えば敵を打倒しても人生は続く。そして人生が続く限り、社会も存在し、新たな敵に出会うことにもなる。その時にまた政治的攻撃性が必要になる時がくるかもしれない。その「時」に政治を利用すれば良い。

政治を引き出しの中にしまい、ツールとして捉えることで政治とまともな距離がとれるようになる。それが正しい姿勢なのではないだろうか。

 

 

・攻撃的であることの自覚

そして政治が攻撃的なものであるという自覚があればこそ、誰が敵なのかという視座を養えるようになり、結果としてメディアやネットから日々流れてくる仮想敵や陰謀論に巻き込まれないでいられる。

また、政治が攻撃的であるという前提を共有してこそ相手を死に至らしめる攻撃をしないで済むし、その攻撃方法を厳選することにも繋がる。

敵を殲滅しない攻撃方法を選ぶことよって政治が穏やかに回っていくことになるのだ。

政治においては攻撃がいけないのではない。その「方法だけが問題」なのである。

 

しかしながら他方では、以上のような政治、つまり攻撃性が忌避される自由な社会に僕達は生きてもいる。というか攻撃性を排除し、政治性もとい友敵理論をなくそうとしているのが今の多様性社会となっている。その点でノンポリが多数派を占めるのは「非攻撃的な社会」にあっては当然の事態ではあるのだが、しかし同時にその非攻撃性という視座が政治を攻撃的なもの(狂気)と見なすことで政治を硬直させているというのも無視できないことだ。

政治的議論の現場にあっても調停や建設性が金科玉条として言われており、適切な攻撃でなければ誹謗中傷などにまとめられる場合がほとんどである。しかしこの「適切な攻撃性」というやつも厄介で、多くの人は適切な攻撃ができるほどの装備を持っていない。徒手空拳で体当たりして玉砕するか、あるいは自爆テロのような形で攻撃することで逆に訴えられたりする。

しかしながら政治とは敵がいるものである。そのため、「どのように攻撃するか」が政治的な議論では重要となるのであるが、他方で社会は「人を攻撃するな」と言っている。その二律背反に苦しんでいるのが今の政治模様であるのだ。

普通に考えてみても批判とは相手の発言に異を唱えることであるため、それ自体が攻撃的なのは明らかであるのだが、しかし批判を禁止すれば政治が政治として機能しないのも事実である。

政治とは敵の存在を想定している点で攻撃的なものであり、現代日本の自由な社会生活とは極端に相性が悪い。実際の生活とはあまりにもかけはなれたものとなっている。

 

まとめ

そして社会から攻撃性を排除していった結果、社会の耐性がなくなり、前景化した政治的攻撃にたいし社会が無批判に応答してしまうという、今日のコンプライアンスやキャンセルカルチャーの問題にもつながる。

政治が攻撃的であり、それが社会と接続している限り、社会の側にも攻撃に耐えるための耐性が必要になる。政治が攻撃するなというのは簡単であるが、そもそも政治とは攻撃的なものであるため、無理な相談だ。社会の側も政治に耐える必要がある。

自由という「非ー攻撃性」だけでは政治に社会が撹乱されることになるのは、そもそも構造としてそうなっているのだからしょうがない。であれば「耐える議論」をすべきなのだろう。

その防御力を養うために、まず政治が攻撃的であるということ、その前提を持ち、戦う時には戦うとはっきり言うべきではないだろうか。

さもなければこの政治と社会という矛と盾による膠着状態、それによって温存され続けてきた「失われた○○年」は終わることはないと考えている。

表層的コミュニケーションの限界と終わらないワンピース

子育てエッセイの先駆者として知られる西原氏のエッセイが実態にそぐわないものだと報道され炎上しているけどいろいろ考えさせられてしまう。
経緯としては西原氏のお子さんが成長し、エッセイで描かれていた家庭の内実をツイッターやブログでつまびらかにしたことに端を発しているみたいである。そのブログがはてなにあるので言及という形にもできるのだけれど、あれこれ言われること自体を快く思わないはずなので言及はしない。あくまで一般論として書いていくことにしたい。
 
この件はなにか他人事ではないなと思ったんですよね。ネットやリアル問わず僕達がしているコミュニケーションとほとんど地続きなのではないかと感じている。
 
西原氏が書いたエッセイと実際の子供が感じていたものはまったく違うというけれど、西原氏のエッセイを楽しんで読んでいた人がいることもまた事実ではある。それが虚飾されたものであるとはいえ、虚飾されたコンテンツが人気を博し、それがあるべき子育て論として現実を置き去りにして普及し、あまつさえよりリアルな質感を伴うものとして消費され、子育てエッセイというジャンルにまで発展した。このような「現実の総入れ替え」はインターネットが出てきて以降、あらゆるところで確認できるものではないだろうか。
 
西原氏のようにガワを取り繕い、虚飾で加工した「綺麗な物語」のほうがむしろよりリアルなものに見える。それは子育てエッセイに限ったことではない。たとえばセミナーやサロンといった一見して虚飾とわかるものだけでなく、政治や経済もまた現実を置き去りにした綺麗な物語が席捲している時代でもある。SDGsエシカル消費といったものがその筆頭であろう。
物語のほうが先にあり、それに追随するように現実が追いかけていく形だ。しかし現実が進むスピードには限界があるので物語だけが先走ってしまうことになる。ちょうど西原氏が現実の子供を置き去りにしたように、である。そして「追いつけない現実」と「物語」との整合性をとるために虚飾という手段が採用されることになる。
インターネットを通じ加速度的にコンテンツが消費されるようになっていったものの、消費速度についていけないコンテンツは淘汰されるか、そうでなければネタを捏造する、つまりガワを被ることで「物語に物語を追いつかせる」という形を取るようになるのであろう。
つまりインターネットというマスコミュニケーション装置はその高速性ゆえ、現実を吹っ飛ばし、物語に別の現実(虚飾されたリアル)を覆いかぶせ、その表層に化粧をかけるよう促しているのだ。
 
化粧、虚飾、あるいは表層のほうがリアルだというのはかつてボードリヤールシミュラークルという言葉を使い、「近代とは記号に埋め尽くされた世界である」と喝破したものに近い。しかしながらそうした「リアリティー」には当然ながら弊害が存在する。
代表的なものが炎上だ。近年、政治家が失言したりゲーム配信者が暴言を吐いて退場させられるといった事件が枚挙に暇がないけれど、具体的な事件の内容はともかく、僕達はそれを許すことができないでいる。言論として反対を表明することはできるものの、たいした効果がない。許せないとなったら許せないという身も蓋もない構造になっているのが炎上なのだ。
このような炎上したら終わりという事態にあっては、一瞬で炎上するその回路はどこからきているのかという「元を遮断する議論」を考える必要が出てくる。
愚考するにその回路がつまり上述した「表層化され、脚色されたリアル」なのであろう。いまや現実が取り換えられており、リアルとは表層のことであるゆえに、失言した個人がいれば即座にその表層は当該個人の物語、もとい人生という「徹底的なリアル」へと紐づけられ全面的な炎上へと発展してしまうことになる。
近視眼的に人間を判断し、高速的に取捨選択するというフォロー・フォロワーの関係と似たようなレベル、つまり表層によって実際の人間にも取捨選択の論理が働くのが炎上の原理ではないだろうか。したがってその表層、化粧が濃い好感度の高い人間のほうがより大きく炎上することにもなる。
 
とりわけ細分化して見た時の炎上にはルサンチマンやキャンセルカルチャーといった形で名前が与えられている。しかしながらその「発火装置」は同じものだったりする。
ゆえん僕達が何に怒るかという感情は様々ではあるが、持っている回路は同じである。一度イグニッションコイルに火がつけば、一瞬でエンジンが回りはじめ、ハンドルを捻れば高速で目的地まで移動することができる。よくできたバイクをみなが運転している。排気量(影響力)の違いはあれど、誰もが高速移動できる手段を持っている。そしてインターネットという道路もある。したがって、僕達は一瞬で自らの感情を目的地まで運ぶことができるようになった。あるいは誰かの感情を運び込まれるようにもなった。そして同時にその道路はコンテンツを運ぶ流通網としても利用されている。
つまるところ現実よりもはるかに高速化されたコミュニケーションの現場にあっては、その流通速度が現実の遅さを吹っ飛ばし、その速度に適応するため人々は自らに表象を施すようになり、現実と取り換えられた物語だけを運ぶようになると同時に瞬間的に発火した感情をも運ぶことになるという、その「表層にすべてが没する」ようになったのではないだろうか。
 
以上のように考えるに、西原氏の件に見られるような現実を置き去りにした綺麗で表層的な物語と、表層を全面的なリアルと判断して失言が炎上したりすることは、その「高速的な薄っぺらさ」ゆえに表裏一体なのである。
 
 
そして、こうした「高速的コミュニケーションゆえに生じる表層的判断」はなにもインターネットに限ったことではない。
 
一般に僕達には他人が何を考えているかわからないという暗黙の了解がある。たとえばここでこうして文章を書いていても私のことは程度としてわからないだろうし、インターネットの「表層」だけでわかってほしくもないと考えている。人に余白を残すことでコミュニケーションに弾力性をもたせるというのが他人同士がうまく付き合うコツであり、誰かをある部分的側面や表層で判断すること自体が褒められた態度ではないだろうと言える。しかし僕達はいまや「表層的なコミュニケーション」に慣れ過ぎていたりもするのだ。
ブコメツイッターなどであの人はこういう発言をしているからこういう人物だという表層的判断を連日連夜繰り返しており、その類推は母数が増えれば増えるにつれ的を外さないようになってくる。人間はみな違うとはいえだいたい同じであったりもするからだ。そしてその類推の果てに人への余白が失われ、より加速度的かつ無意識に表層的判断を行うようになるというのがつまりインターネットというマス(母数集め的)コミュニケーションが起こす悲劇ではないだろうか。
理想論を言えば、人は何を考えているかわからないという認識の余白、その建前を取り戻すべきなのであろう。
 
子供をコンテンツにしたエッセイが人気を博しても当の子供が実際に感じていたことはまったく違うものであったように、想像すら及ばない領域が人にはあるのだという、その最後のワンピースを残し続けることで守られるものがあるのではないかと、そんなことを思いました。