先日、上野公園を散歩していたら男にナンパされた。
大学の時から乗り換えで気分的にふらふらしたい時などは御徒町から上野駅までアメ横を抜けて歩いたりしている。
時にはよく意味もなく湯島天神や上野動物園にいってみたりポルノシアターにいってみたりする。最後にポルノシアターにいった時にはうしろの席のおっさんが手淫をしはじめたのでそれを機に行っていない。
先日、いつものように上野公園を散歩していた。新年会帰りのサラリーマンが路上に出てくる夜の11時だった。僕は一人で上野公園のベンチにただ座っていた。何をしていたわけでもない。センチメンタルな気分でもない。さびしかったわけでもない。ただ雑踏の中で一人でぼけっとしているのが好きなだけだ。
座っていると仕事帰りのサラリーマンが氷結ストロングの500缶を片手に僕の横に座ってきた。ああ、またか。僕はそう思い虚空をみあげた。これでもう3回目だ。確率的に20%ぐらいはナンパされる。
はじめて声をかけられた時は気の良いおっちゃんだとしか思わなかった。一緒にトイレに入った時に僕のイチモツを強引に見ようとしてきた時にわかった。本当になんの変哲もない普通の人が同性愛者としている。メディアで見るようなケバケバシイ人達ばかりがLGBTではない。
ゲイに性的な眼差しを向けられたことによって常に性的視線で見られている女性の気持ちがすこしわかったような気がした。
男が男を好きになるとか気持ち悪いからやめてほしい。僕は瞬間的に沸いてきた性差別的な問答をLGBTの権利という社会常識によって押し殺した。
よくわからないが僕はそんなにゲイの方に好かれるような顔をしているのだろうか。顔は薄く目のクマが人並み以上にある無印象的な僕の顔のどこに魅力があるのかわからないがよく声をかけられる。
上野公園での被ナンパ確率というビックデータはないのだろうか。検索したがやはりなかった。Googleは本当に大切なことは何ひとつ教えちゃくれない。
ひとつゲイの方にナンパされてわかったことがある。ポジティブでピュアなことだ。
昨今の男女恋愛では恋愛の閾値がはねあがりすぎている。ゲイの方は僕に僕という存在以外は何も求めなかった。ただお酒を飲んで話す彼らの目には純愛が宿っていた。
女性は男に安定した職業と貯金や学歴などなどを求める。男性は女性に時にアニメキャラクターのようなチート的なかわいさとスタイル、純潔さを求める。
女性が男性に求める収入などは歴史的にも超特殊な高度経済成長の一億総上流の世代の価値観をそのままひきずっている。幼少時の父のような男を探し求めるがそんな男は現在はほとんどいなくなってしまった。
男性が女性に求める容姿などは化粧品の品質や整形の技術が向上したことによってはねあがった。そもそも人間の身体的な美醜などは100年そこそこでそんなに変わるはずがないので昭和のアイドルと平成のアイドルの透明感の違いなどは単なる化粧品の品質の違いでしかない。
かわりに女性はすっぴんでいるだけでブスと言われるようになってしまった。ファッショニズムの弊害だろう。
これはおそらく閾値の問題だ。恋愛なんてそもそも四畳半の部屋で愛し合うような関係から始まることがスタートでも良い。フィクションによる美談でも清貧からスタートする恋愛の物語は多い。
いきなりタワーマンションで夜景を見ながらシャトー・マルゴーを飲んでいるような恋愛をそもそも恋愛と呼べるのかどうかすら疑問だ。付加価値がくっつきすぎている。
僕はそんな社会的価値による男女恋愛にはもう金輪際参加したくはない。
一度のデートの失敗で連絡を遮断する女、ただ一瞬の沈黙さえ許さない女、日高屋に連れて行ったら失望するような女、人を値踏みするように見てくる女、今日は金がないと言ったら逃げていく女。
僕は女性に何も求めていない、しょうしょうブスでもかまわない。ただ一緒にいることが苦ではない関係であればそれでいい。ただそれだけのことが社会人になると非常に難しいのはなぜだろうか。学生の時にはたしかにそういう関係を築けていたのに・・・
そんな価値観でしか恋愛ができないのには失望する。女性を単なる物体として扱う恋愛工学が流行るのもわかる。あれも恋愛に絶望した人間のひとつの亜種だろう。
「僕は愛を証明しようと思う」
この一文には決定的に重要な一節が抜け落ちている。
僕は愛の「くださなさに失望し性欲に逃避する人間の業」を証明しようと思う。のほうが正しい。
僕も愛を証明することにしよう。