メロンダウト

メロンについて考えるよ

意識はあざなえるなわのごとし~意識の舵を取ろう~

禍福はあざなえる縄の如しからブログタイトルを引っ張ってきているのであろうブログを拝読させていただいた。

皮肉めいた物言いになってしまう恐れがあるのだが意識が高い、低いというのもまたあざなえる縄の如しでしかないのだ。

 

azanaerunawano5to4.hatenablog.com

 

 

意識が高い人間がある特定の層から反感を買うのは実はもう何十年も昔から同じ対立軸が存在する。資本主義と社会主義だ。

 

 

資本主義は無限に利益を増殖させていくことが善でありその資本を増殖させれば再分配その他で最大多数の最大幸福が実現できるというものだ。まあそれは理想論なのだが理念としては資本主義は本来そういうものだ。

意識が高い人は思考様式がこちらの資本主義側であって意識を高めて自らの世界線を無限に延ばしていくことで幸福が実現できると信じている。それは方法論としてはあながち間違っていない。

人間が幸福になるというのは欲望を満たすこと、と同時に恐怖や不安を取りのぞくことだ。好奇心や上昇志向、意識を高く保つことによって自らの世界を無限に拡張することで知らないものや知らない場所でも適応することが可能になり恐怖や不安は少なくなっていく。

 

具体例を出せば美容院だ。

美容院というのは動物的客観に立ち返れば後ろに刃物を持った他人が後ろに立っている。という点で本能的には逃げ出したいような場所だが僕らは自ら拡張した世界観、つまり経験によって「安心」して他人に髪の毛を切ってもらうことができる。

それはどんな状況でも同じことが言えて本能的不安を取り除き人が動物から人間になるには意識を高く持って成長していくしかない。

だから意識を高く持てという人の意見に僕は賛同するし学生のころは僕もくくりで言えば意識高い系だった。

 

 

一方で社会主義がなぜ勃興したのかと言えば個人主義自由主義を基本原理とした資本主義へのアンチテーゼだ。

18世紀の産業革命により資本主義が台頭し生まれた格差によって人々がブルーカラーとホワイトカラーとに分けられそれまでの相互扶助的でゲマインシャフト*1だったコミュニティーが壊されたからだ。

社会主義とは平等や公平、相互扶助によってコミュニティーを保ちながら生きていこうとする理念だ。

これは意識を低く持とう、というか意識を保とうという考えと似ている。

 

定住して地産地消で穏やかに暮らしていこう。社会主義を意識に落とし込めば自らの生活を守り保守的に暮らしていけば不安や恐怖、トラブルと遭遇することもなくなるから成長しなくても幸福は実現できるというものだ。

 

意識が高い人間が不安を取り除こうといい意識が低い人間はそもそも不安になるようなものになんで関わろうとするのと反論する。逆に意識が低い人間を怠惰だと意識が高い人間は批判する。

 

 

簡単に言えば右と左の単純な構造だが意識が高い低い論争はなぜか気持ち悪さばかりが先走った話ばかりになって論理的に捉えていない言説が多すぎるように見受けられる。

 

 

これは何も経済学のようにマクロとミクロの話が分かれていて場合によっては合成の誤謬などのように致命的な矛盾が起きるわけではない。

意識なんか個人の頭の中にある姿勢で誰に迷惑がかかるわけではない。社会主義や資本主義のように人間がシステムの中に組み込まれているわけではなく人間の中に意識があり大事なのはそれをコントロールすることだ。

 

意識を高く持って不安を排除していこうということも意識を低く持って穏やかに暮らしていこうということもどちらもポジティブに捉え両刀使って生きていけばいい。

それこそ時と場合によってだ。意識はあざなえる縄の如しなのだ。

 

なぜ自らの聖域でコスモロジーである頭の中をゾーニングしてしまうのか。

わけがわからん。

 

 

*1:血縁・地縁によるコミュニティー