メロンダウト

メロンについて考えるよ

インターネット劣情マン

無垢な人生を歩いてきた人間に憎しみが向けられていた

 

b.hatena.ne.jp

インターネットは劣情のほうに同情が集まりやすい。しかし無垢で純粋な何も考えないで生きてきた人も、おそらく本当に何も考えないで生きてきたわけではない。憎しみが人生のよすがになることと同じように純粋さもまた大切なものだと、僕は思う。

劣情が勝ち、純粋さや無知は負けなんてそんなものを僕は支持しない。どちらも当たり前に大切

 

 

 

インターネットにはあらゆるところに独白のような劣情を暴露した文章が投稿されている。普段見せない他者の内面が覗けるのはたいへん面白い。

ああ、みんな問題を抱えてるんだな、なんてことは読むまでもなくあたりまえなんだけど、可視化された劣情を読むとすこし「安心」する。

 

 

しかしこのインターネットで劣情を見て安心するというのはとても危険な側面があるんじゃないかと思う。安心は麻薬なんだ。ヘロインのようなダウナー系の麻薬がめちゃくちゃ危険なのと同じように、レディオヘッドを聴いてどこにも所属しなくていいんだと感じるように、太宰を読んで恥を抱えたまま生きてもいいんだと感じるように、現実を無視した自尊心の形成というのは「めちゃくちゃやばい」と僕は思う。

それはインターネットで劣情を読んですこし安心するものまったく同じだ。

 

だって問題は抱えたままでいいんだ、なんてそんなことあるわけない。問題を抱えたらなんとか解決しなくちゃいけない。憎しみを吐露したからと言って世界が変わるわけではない。太宰治を読んで心が救われたとしても文学や音楽は代替物であって自分の人生を決めるのは自分の行動だけでしかない。言葉をこねくりまわして人に劣情を届けるのはそれはそれで大変に価値のある行いだ。しかしどんなに筋道たてて論理立てて言葉を紡いだって現実に起きている問題を解決するには多くの場合ほとんど役に立たない。

ましてやインターネットに劣情を投稿してもまったく意味がない。多くの問題に直面したさいに大切なのは劣情をこねくりまわして理由をつけることではなく意味も理由も棚にあげてただ行動することだけだと僕は思っている。自分の不遇も憎しみもプライドも、文学もなにもかも捨てること(忘れること)のほうがこのまったくもって理不尽な社会においては肝要なんだろう。

 

これは文学に意味はないなんて話ではない。文学やインターネットと現実は切り分けて考えたほうが時には良いという話。

 

 

そもそも劣情だけが文学なんてそんな捉え方になったのもここ最近の話。無垢で純粋な人間にも、勝ち組と言われる人たちにも文学は存在しえた。

弱者や労働者のために文学は存在するという価値観を象徴している有名な言葉が村上春樹さんの言葉

高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵がある時には私は常に卵の側に立つ

村上春樹エルサレム受賞式スピーチより引用

 

これがいまの文学を表している言葉。文学者は常に卵の側に立ちたがる。それはインターネットも同様だ。インターネットも潰れてしまう卵の側に立ちたがる。

ブラック企業経営者の資金繰りの話よりも鬱病にかかった労働者のほうに同情する。純粋に生きてきて結婚した無知な人よりも孤独な人のほうに立ちたがる。潰れてしまう卵の側に立ちたがる。

 

しかしどうしようもなく倫理も哲学も捨てなければいけなくなった壁の側にも文学があっていいんじゃないかと僕は思う。

卵にだけ文学が存在するなんてそんなことはない。

 

そうして卵に寄り添うように文章が劣情を吐露するためだけのものになるのは危ない。インターネットで劣情ばかりに同情するのはやめたほうがいい。

 

卵を覗く時、卵もまたこちらを覗いているのだから