メロンダウト

メロンについて考えるよ

長渕剛とFNSとアインシュタインと三島由紀夫と過剰回避社会

FNS歌謡祭で長渕剛さんが体制批判、マスコミ批判、俗情批判とも取れる歌を自身の名曲「乾杯」に付随して歌った。アイドル、ポップミュージックなどの商業音楽をひきあいに自らの音楽業界についてまで批判の目を向けた。

www.youtube.com

この全方位的な文化批判を聴いて誰かに似ているなと思い考えていたのだが三島由紀夫と酷似しているのかもしれないと思った。三島由紀夫は生前こんなことを言っている。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである

【「戦後日本」を診る 思想家の言葉】三島由紀夫 「からっぽ」な時代での孤独(1/4ページ) - 産経ニュース

 無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国という予言に近いこの言葉はおそらく今の日本を考えるに当たっている。三島が予言した中間色の経済大国はバブル時代の到来であって批判したのはバブルになって訪れる俗情の奔流のことだったと推察すると今この時代をあらわす言葉、ではない。

経済的大国というのはデフレが20年間つづき事実上終わっている。

この時代を表すのは三島よりもアインシュタインの予言をひいたほうが正鵠を得ているように思う。

I fear the day that technology will surpass our human interaction. The world will have a generation of idiots.

私はテクノロジーが人間の交流を超える日を恐れている、世界は愚か者の集まりとなってしまうことを

便益が人間の活動を奪う。アインシュタインが言ったこの言葉の意味はとても深いように思う。

 

三島やアインシュタインが言ったように時代をクリティカルに批判する偉人の言葉は見事なまでに時代の潮流を汲み取っているし無視するべき言葉ではないのだと感じる。

そして今まさに生きて歌っている長渕剛が言いたかったことはなんなのだろうと思いをはせる。普通から見て異常とも見て取れる長渕剛氏の詞を中二病と断定してゴミ箱に放り投げてしまうことは簡単だ。簡単すぎる。簡単さという便益に依存することは愚か者の集まりである。歌詞を見てみる。

アメリカの大統領が誰になろうとも
凶と出るか吉とでるかそりゃ俺たち次第じゃねえか

今日もマスメディアの誰かが
無責任な話ばかりしている

正義のツラしてしったかぶりしているヤツの言うことを聴いている俺

これ以上答えのねぇ話なんか聞きたくねぇ
歌の安売りするのも止めろ

日本からから歌が消えてく
日本から言葉が消えてく

自らの言葉をつむぐ歌い手たちが
群れを成して魂の歌を産むならば
俺たちは歌によって
正しい道を見つけることが出来るのに

「ウ・タ・ヨ・ノ・コ・レ」
「ウ・タ・ヨ・ノ・コ・レ」
「ウ・タ・ヨ・ノ・コ・レ」

俺たちの東北・仙台・俺たちの九州・熊本、そして福島も頑張ってんだ
オリンピックもいいけどよぉ

若者の貧困、地域の過疎化どうする?
騙されねぇぜマスコミ
騙されねぇぜヒットチャートランキング
騙されねぇぜワイドショー

ところでけなげな少女の瞳が今日も銃弾に撃ち抜かれていく
岸に倒れた名もない兵士は
母の名を叫んで死んだ
アジアの隅に追いやられてきたしなびきったこの島国で
屈辱の血ヘドを吐きながら今日も俺たちは歌う

出典:フジレテレビ・12/7FNS歌謡祭 長渕剛

 歌詞を見てみると三島の語っていた「無機的」という言葉を思い出さざるを得ない。つまり三島由紀夫長渕剛はおそらくいまこの時代において不在となりがちな有機的な魂について書いているのではないか?

だまされねえぜマスコミ、日本から言葉が消えていくなどというといつどこで誰が何分何秒地球がどれだけ回った時などと具体性を求めるつっこみをいれたくなるがたぶんそんな明確な「時」があるわけでもないのだろう。ただ誰のせいでもなくいつのまにか侵食してしまった。

そして僕はこれに同意できるような気がする。ここまで時代を断罪するほどの知識や経験自体を僕は有していないしそんなに僕は僕自身の思想であったりなどを信じることができないでいる。だからなんとなく「わかる」というその程度の話である。

そして長渕さんの歌ったことは言葉ひとつで形容するのであれば「ニヒリズム」が一番しっくりくる。

ニヒリズムはよい意味でも悪い意味でも使用される言葉で一般に「悪」とされるニヒリズムは受動的ニヒリズムで意味を引用すると

何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム

ニヒリズム - Wikipedia

 

何も信じられないというのは正確ではなくいまこの社会は信じることが危険なんだと思うのだ。だからみんな過剰さを回避して結果として何も信じられない事態になりニヒリズムを生む。

たとえば恋愛なんかでも過剰さは回避され異常なまでの愛憎は回避されやすい。相手のことを慮ることが重視されるし感情は浅いことが大人である態度のようにとらえられることさえある。

仕事でも過剰さは回避される。終身雇用は終わったし流動性が高い社会では会社に忠を尽くし型にはめられるのは危険なのだ。だから無意味な飲み会も忌避されるようになったしドライな職場のほうがむしろ善であるととらえられる。たぶんみんなが望んでそうなったのではない。過剰さを回避するのが生存戦略として時代とマッチしている。

音楽もおそらくそういうことなんだろう。昔の音楽は悪い意味でいえば自我さえ預けてしまうような深い音楽が多かった。しかしそういう依存的態度を担保するように魂の形まで歌い上げてしまう過剰さは回避される。

恋の形はフォーチュンクッキーで恋の模様はギンガムチェック。まこと意味不明な風船のごとき軽さこそが必要なのだだろう。

 

長渕さんが歌っていることはLIVINGとして正しい。しかし今この時代のSURVIVALとして歌うには破綻している。

しかしわかる。長渕さんの歌っていることは人間としてとても大切なことを伝えようとしている。わかるし共感もできる。魂のかなり深いレベルに触れてくる曲達を僕は大好きだ。しゃぼん玉や巡恋歌などすばらしい。

しかし過剰さは回避しなければ生き残れない。そんなニヒリズムが、時代が、いつのまにか僕のベッドの横に寝ていた、だけなのだ。