メロンダウト

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「信者」という言葉が持つ如何ともしがたい気持ち悪さはなんなのだろう

清水富美加さんが出家なさったようですけど信者信者信者と信者であふれてますね。宗教の自由なので個人の信仰に横から口を出すことは差し控えたいところですけど、コスモ石油のCMの清水さんは大変かわいいので差し止めにしないでいただきたいものです。

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かわいい

コ・コ・ロも満タンに、コスモ石油
レブロでココロがガス欠になってしまった清水さんについてと「信者」という言葉の気持ち悪さについて書いていきます。
 
自分だけかもしれないが日本語の「信者」という言葉がかなり嫌いなんですよね。どこか嘲笑とか差別的なニュアンスが込められているような感じを受けます。うまく説明できないし宗教差別など微塵もないのですけど特定の宗教を信じている人を信者と呼ぶのが気持ち悪く感じてしまう。
 
日本で主だった宗教だと仏教キリスト教ですけど仏教仏教徒と呼びますしキリスト教でもキリスト教徒、あるいはクリスチャンと呼ぶことが多い。信という言葉を使うにしても信徒と呼ぶ機会が多いように思います。この「徒」と「者」の違いもまたなんなのでしょうかね・・・
 
理由を勝手に推測するに「信者」は宗教のようなシリアスな話題ではなくもっとカジュアルな侮蔑語として使われるのを目にしたり聞いたりすることがあるからかもしれません。
「ワンピース信者」とか「AKB信者」のように理解できない信仰を持つ者に対する外からの言葉として見ることが多いので良い印象を受けないのかもしれない。あるいはまったくの僕の個人的な感覚かいずれかです。
 
宗教上の「信じる」という行為は完全に主観ですね。恋人や友人のような関係における「信じる」は相互関係であって他者とをつなぐ行為であるかぎり外から見てもある程度理解できる感情に見えます。
しかし宗教上の信じるは神と自分の関係でそこに他者が(直接的に)存在しない(がゆえに)絶対的な関係性の中で完結できる(がゆえに)狂信者もまた生まれたりする。
もちろん仏教のように脱宗教という観念がある宗教や唯一神ではない宗教、教典の解釈によりその関係性も違ってくるものもあるでしょう。しかし神と自己の関係においては、他者から発せられる「信者」という言葉は何の意味もなさないのでしょう。
 
おそらく日本には神を信じるという意味での「信じる文化」がないのだと思う。日本では神は感謝するもので英語のGod bless youのように神に祝福を受けるような文化がない。
神社でおみくじを引くような意味での神はいますけどそれは自己と切り離された意味での神であって大凶を引こうがなんとかするのは自分であって厄年でもなんとかするのはあくまで自分でしかない。神にお祈りする際にも明確な神のイメージがあるわけではなくどこか自己暗示の意味合いが強いように思います。つまり無宗教の日本人が抱く神はお告げをする役割として存在するのでしょう。無宗教の日本人にとっては。
 
キリスト教イスラム教の神はもっと具体的で相対的ではないでしょうか。距離が近い。メッカにお祈りし特定の食材を食べずラマダンを行うなどの教義を守れば救いがあると信じています。日本にはない「信じる」の形がある。
信じる者は救われる意味での信教があるので信じるという行為の意味合いが(日本人全体を定義しているのではなく僕が神社でするそれより)はるかに重いものなのでしょう。つまり宗教徒が抱く神は行為の見返りとして実在する。
 
日本語のこの信者という言葉が持つ気持ち悪さはなんなのだろうかと考えた時に信教の絵空事感というか手触りのなさのようなものがあり、それが軽薄な形での「信者」を生み出していると推測できます。
 
それはそうと清水さんの引退はけっこう残念です。あれだけの女優さんですから一連のニュースで清水さんに救済されるのであれば幸福の科学に入信するのも悪くないなと考える人がけっこういそうですね。僕は無宗教ですけど出家して救済業に従事する清水さんに救済されるのは良いなあ、なんて今回のニュースを見て素朴に思いました。救済されてえよ、そりゃ、人間だもの。
 
清水さん自身が持つ魅力はもちろんですけど、同時にツイッターなどでつぶやかれている「労働環境からの解脱」と「大人の怖さ」と「性的コンテンツの氾濫」と宗教の広告塔としてはこれ以上ないほどにいろんなものが混ぜ込まれてます。

 

 

レブロのブラックさとの対比でイメージされる白く聖なる宗教とまでいくと言いすぎですけど、何も知らない人はそれくらいカウンターとして良いイメージを持つかもしれません。
何を信じようがまったくもって自由なのですが清水さんに引きずられて安易に入信するのはやめたほうがいいとは思います。カルトであれ神教であれ仏教であれ心を預けるのはかなりセンシティブなものになることは間違いないでしょう。まして大川隆法さんのように実際に生きている人間を信仰する宗教は非実在の神を信じる行為よりもはるかに、うーん、「難しい」と言うのが良いですかね。危険というのは差別になりそうなので言いにくいので「難しい」が適切ですかね。キリストや仏陀のような神であれば完全に観念の中だけで信じる神なので変化することが(解釈を変えないかぎりは)ない。
 
まぁなんというかいずれにせよ「信者」は軽い差別語に聞こえることがあるという個人の感想です。

 

ラマダンジグソー

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