表面的な善意を取り払うと、その発想は、19人の障害者が殺害された相模原事件とつながってくる。
正直言ってあまり腑に落ちなかった。
障害者を差別している側が自分で考えろというのはものすごく危険な話だと思う。極端な例を挙げれば言及記事内にも書かれている相模原の事件。
あれはむしろ「自分で考えすぎた」から総理に手紙を出して障害者を間引くような危険思想に走ったという構造だった。理念だとかポリティカルコレクトネスだとか基本的人権、あるいは記事内で書かれていた表面的な善意みたいな客観視点は自らの主観性を疑問視する為の指標みたいな役割が本来はあるはずなんだよね。
最近はポリコレをはじめその客観視自体を否定する空気もあるけどリベラルが言う永遠不滅の理想みたいなものはどれも指標としては間違ってはいないんですよね。現実的にその理想的人間像を背負えるか背負えないかみたいなことが議論されることはあるしそれでトランプが当選したわけだけど理念が正しくないわけではない。
しかし障害者に優しくしなきゃとか地球の裏側に生きている人に寄付を送るとかさ、そういう一般に偽善と言われるものは人間という動物が不特定多数の他者と生きていくかぎりは必要なものだ。
障害者の話に戻すと障害者のことを自己客観視なしに語らせたら車椅子が邪魔だとか税金かかりすぎだから社会に出てくるなとかそんな話になってしまうのは自明なんだよね。子供のころに学校で知的障害者の方を差別するなんてどこの学校でもあったはずで自分が通っていた小学校にも中学校にもあった。
言及記事内で小さい主語で語れと書かれているけれども人間は教育を受けて小さい主語から外れて初めて「人」ではなく「人間」になる。
ヘーゲルも書いていることだけど人は家族から市民になって国民になる。そうして国民としての自覚を持つ(客観視する)ことで人間は昇華され成熟していってその過程で不特定多数の他者にたいする思いやりをもてるようになる。
その思いやりも記事内の論法で言えば偽善で表面的な善意ってやつなんだろうけどね。
人間なんて後天的には可変的だけど本来は動物でしかないことを無視したら弱肉強食の世界にしかならない。それはとてもナチュラルに障害者を差別し容姿と身体能力で階級が決定する初等教育の現場を見れば明らかなんですよ。
なんというかさ、人類が民主化して教育を受けるようになって世界とか国家に比しての自己を客観視できるようになってその結果めんどくさいことも増えた。けどその開かれた偽善の意識は嘘でもなんでもいいから絶対に保持すべきものだと僕は思うよ。
突拍子もない例を出すとヒュンケルみたいなものだよね。ダイの大冒険の。26巻ぐらいだったかな。ミストバーンから暗黒闘気入りの杯を飲まされるんだけど光の闘気で暗黒闘気を体の奥底に封じ込める。あれがそのまま人間が持つ闇と光、教育と動物の相克を象徴している。
でもお前からだ光ってっけど暗黒闘気からだのなかにあるじゃん、それ表面的な光の闘気じゃんとか言われても野暮としかいいようがないわけで。
つまり後天的な教育によって与えられた建前こそがリアルであるべきでリアルをそのままリアルにしようとするのは人間の混沌から目を反らしているだけのような気がしてならない。
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