メロンダウト

メロンについて考えるよ

部活動の論理的批判は哲学的に見れば明確に間違っている

部活動の全国大会を廃止すべきといった記事を見たのだが近年、世論で統一して見られるのがマイナスをとにかくゼロにしようという動き。

旧態的な発想は許さず既得権も許さず保護論、保全論で物事を語る。部活動のような過酷な活動を語る時に精神にかかるいっさいの重力を悪とし論理だけで物事を語るがもちろん人間には精神があり、根性もある。そしてえてして論理が根性を掬うことはない。

 

マッチョニズムは常に強者の理論として扱われ生存者バイアス(生き残ったものだけで物事を判断すると誤った判断をくだしてしまう)といわれ一蹴される

しかし敗者の論理が必ずしも正しくないのと同じように強者の論理が必ずしも間違っているとは言えない。

弱者は往々にして論理だけで物事を語る。部活動に所属していなかった文科系の人の中にはまれに、部活動の過酷さにはいっさいの論理性も正当性もないという。

部活動はたしかに社会で役立つスキルを得ることはない。実務的な能力で言えば彼女、彼氏でもつくって遊んでいたほうがましである。または勉強をして知識を得るほうが将来のためになる。

 

しかし強制された運動、強制された人間関係、強制された仕事によって得るものはたしかにある。強制されることで限界を超え本人が持つパフォーマンスを上回る結果を出すことができるのも事実である。

いつ終わるともわからない往復ダッシュや終わるわけがないタスクなど課された課題を与えられることは人間に重力を与える。そして重力によって潰れてしまう人がいるので重力そのものをなくそうといったものが今回の「部活動の全国大会廃止」の「論理」であろう。

しかしあえて否定すれば重力があるからそれをなくしてしまえばいい、というのは短絡に過ぎる。無意味と思えるほどのハードトレーニングによって「根性」を獲得し、またそれを自尊心として形成する人がいる点においてハードトレーニングがまったく無意味なものと言うことはできない。その根性、自尊心は明確に将来の役にたつ。勝者は驕ってはいけないが誇っていいし誇るべき、である。

仕事のように生産効率といった点で見ればハードな労働もといブラック労働はまったくの無意味であるが、成長過程におけるブラック部活がまったく無意味なものだとはどうしても思えないのだ。哲学的な話であるが自我を形成する過程において何も判断できず、何も知らない子供にたいして大人ができることは選択の余地をあたえながらもなにかを「課す」ことしかない。

生まれた時に名前を課し、成長して教育を課し、部活動を課し、そして中高大と見聞をひろめ大人になって自由に選択する。子供を大人と同様に扱い自由が至上であると言うことは課すことをやめ重力を与えないと言っているのと同義である。

課すことが嫌な大人は自由という蓑に逃げ込み論理でしか話すことをせず、子供に重力を与えず、中空にうかべかわいいと愛でるだけの無責任野郎だと言っていい。

結論を言えばインターネットは人間のソフトウェアのみを表出し論理で物事を語る人が多数いる。そして論理だけで言えば過酷な部活動が正しくないことは事実であり、よって世論としてはブラック部活は間違っていると出てくる。

しかしいっぽうで人間にはハードウェアがあり身体的な強さと連動した根性を形成することは成長過程において大切なものだといえる。

そして教育においては子供にたいしてなにかを課すことが原罪である。

 

それを罪だと断罪することは簡単である。そしてその非難に論理的正当性もついてくる。しかしその批判は哲学的に見れば明確に間違っている。終

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52598