メロンダウト

メロンについて考えるよ

日本\(^o^)/オワタあ~たたたたた!!(  ̄口 ̄)三★)゚◇゚)三★))゚□゚)

日本オワタ論について書いていきます。ちょっと長いです。あ、タイトルの顔文字にいっさいの意味はないです。

日本がオワタと感じることがある理由をとりあえずあげていきます。

デフレ、トリクルダウンの失敗、格差、派遣法、グローバル化、人口集中、少子化、ネット、SNS、嫉妬、自己愛、焦燥感、閉塞感、ピュエリリズム、ニヒリズム無宗教、多様性、信頼の不況下などなど

 

序論

日本オワタ論へのメジャーな反論に先にこたえておきます。日本が終わったというと戦後の米もまともに食べられない時代と比較してといった反論が来ますが歴史と比較して現在の状況を無理に肯定するのは本質的に意味がないと捉えています。

比較論で幸福を論じるならばすべての人間は「比較して幸福」だと言うことができます。戦時中には戦時中の辛さが、そしていまこの瞬間にはいまの時代だからこそ感じる辛さがある。状況が別であるならば問題もまた別だと考えなければ何も始まらない。

 

たこの比較論による思考の強制が閉塞感の理由と数えることもできます。つまり現状、日々の生活に苦しんでいたり閉塞感を感じていたりする人間(私のような)にたいしてこの比較による幸福論は「絶望するな」と言っているんですよね。日々の生活に希望もない、経済的にも縮小していくのが自明であり将来に展望も見えない人間にたいして絶望するなと比較論は言うのです。これが閉塞感という問題を人々に直視させないようにしている。

 

閉塞感、この言葉は希望がないとほぼ同じ意味で使われますが希望がないのと同じかそれ以上にこの国では絶望がないのでしょう。希望を持たず絶望することすら許されない漫然たる生がただ蠢いているとまったく不躾な物言いをするならばそう言うことができます。希望という出口も閉まっていて絶望という出口も塞がれていることをもって「閉塞感」と呼ぶのでしょう。

 

 

経済的閉塞感

デフレと格差、そしてグローバル化でほとんど説明できるように思えます。

デフレについてですがアベノミクスにより株価上では回復したように見えますが実体経済のうえでデフレをインフレに転じる最大の起爆剤は消費者の楽観性にある

日本は20年以上にわたってデフレのまま経済をまわしてきたので給料はあがらず金は貯金するものだという観念が心にこびりついているのですよね。

たとえばバブル期は借金しまくって不動産を買いまくる楽観性によって経済が支えられていました。借金して手あたり次第に不動産を買い投資する。

その楽観性を取り戻さない限りは実体経済がインフレになることはありえないのですが日本人がそこまで楽観的になれるかどうかといえばかなり難しいと言わざるを得ないと感じます。

日本でも格差がだいぶ広がってきました。この一因として考えられるのがフェミニズムによる男女同権と言えます。女性の活躍などを否定する気はまったくないし多少の格差が生じようとも平等は維持されるべきだと考えていますが事実としてフェミニズムは格差という側面から見ると問題を生んでいます。

家父長的な家族では男性が年収500万のサラリーマンに専業主婦の妻がいて世帯収入が500万となりますが男女同権による社会が実現すると

キャリアのある女性(年収500万)がキャリアのある男性(年収500万)と結婚することで結婚という制度によって埋められていた格差が埋まらなくなります。女性がキャリアも年収もない非正規の男性と結婚すればいいのですが一般に女性は男性よりパートナーとして年収がある異性を選ぶ傾向が強いみたいです。これはフェミニズムによる弊害と言うことができるでしょう。

 

派遣法による非正規の拡大ももちろんそうですしフェミニズムによる結婚の経済的(家計簿的)バランシングの崩壊、そしてグローバル化による資本の海外移動、労働の底辺への競争とすべての条件をもって格差拡大の理由と位置づけることができます。

 

 

 

インターネット

インターネットは嫉妬の装置として機能している側面があります。

炎上によって書き込まれるものもほとんどは嫉妬によって動かされている人のものが多くそれによって安い正義が量産され公共性が破壊されていく。嫉妬を買わないように、謙虚にと当たり前のように言われますがそれによって死んでいく主体性がある。

また嫉妬は人口が東京に一極集中する理由とも考えることができます。情報化により都市の彩られた生活が地方出身者の目にとまり東京に出てくる人が多くそれにより地方が過疎化していく。地方でネットを見ないで主体的な人生を生きることがある種、盲目的であるが閉塞感に縛られない幸福な生き方であるとも思うのだがそういう生を送ることは条件的に難しくなっている。それ自体を別の閉塞感と言うこともできますが「足るを知る」ことが幸福の条件であるのと同じように「足らないを知らない」のも幸福であると言うことができます。

 

 

信頼の不況下

これは持論なのですが上述した理由というのは実はどれもたいして理由ではないと思っていて、日本で起きている最大の問題は信頼の不況下なのではと考えています。

過去記事のリンクです

 

20年来、ずっと経済的には不況だと言われてきましたがものすごく感覚的な話をすれば同時に信頼の不況化も進行していたのではないかと思う。つまり他人を信頼するというのがどんどん難しくなってきているように感じる。

一般に他者への信頼は治安が悪くなって悪人ばかりになれば当然、失われていきますが日本の犯罪率はどんどん減少しています。むしろ善人ばかりになって良い社会になってきているようにも統計的には見えます。しかしそれと反比例して感覚的には他人を信じるという行為が難しくなってきているのは(子供を預けることができる他人がいないという)保育園の問題からも明らかです。

 

 

人間には生きるうえで2つの不安(経済的な貧窮と自己存在の不安)があるという文章を読んだことがあります。資本主義は経済的な貧窮を解決してくれますが上述した理由により個人主義になり自己存在の不安を増大させてしまう。こっちをたてればあちらがたたずと。トレードオフの関係性にある。明治、戦後、昭和と生存環境が幸福の前提として求められていたなかでは資本の運動に身を任せることは生存戦略としてそれでよかったのかもしれませんが、最近になりなにか分水嶺を越えてきたと感じるのです。

つまり本来は切り離されているべき自己存在の不安を埋めてくれる聖域にまで資本が流れ込んできたのではと。

聖域のなさ。特に近代、そして特に日本においてそれはとても顕著に出てきているのではないかと感じるのです。

 

 近代日本人は聖域を見つけるのが難しくなった。近代どころか全世界でも史上初めてといっていいほど聖域の少ない社会に日本だけが近づいていっているのではと怖くなることがあるのです。

 

 

終論:プリテンディング

日本オワタとそこかしこで見たり聞いたりしますがその言葉とは裏腹にみんな平気なフリをしているように感じます。30代の平均年収など200万近く下がっているのにみんな平気なフリをして働く。いや平気なフリをしていないと働けないと言ったほうが適当かもしれませんが明らかに格差に押しやられ個人主義によって繋がりも希薄化しているのに平気な顔して笑っていなければいけないような空気がある。

つまり外部の条件は戦時中のほうが明らかに悲惨ではあるのだちゃんと悲しめてちゃんと笑えてちゃんと腹がへってちゃんと眠れてちゃんと怒れて自分の感情に素直に生きることは現代のほうが下手したら難しいのではないのかという感じがある。もちろん比較できる話ではないが閉塞感とは言い換えればどこまで心、感情に素直に生きられるかで外部の条件はほとんど関係ないのではと・・

 

暗黙的な感情の強制。平気なフリをし笑いポジティブに振る舞う。その不自然な社会規律が自然な人間感情に浸食する。おそらくはそれが閉塞感の正体である。それを現実で打破できれば

 

経済は楽観性が復活しインフレになり、他者を信頼できるようになり、インターネットに嫉妬をまき散らすこともなくなるのではないのかとまこと楽観的に語るならばそう確信している。

 

最後になりますが言及先リンクです。

www.byosoku100.com

 

フロム・ヘル (字幕版)