メロンダウト

メロンについて考えるよ

いまの若者はくだらないと大人が言うのには文学的妥当性がある

若者はくだらないとか若者は~~~なんてことは時代ごとに繰り返されるものですね。この手の話は若者を軽視する老害の戯言にすぎないので論ずるに値しないと切り捨てるのが一般的な反応ですし軽い気持ちで書くとすぐ感情的な批判が飛んできやすいのでちゃんと議論されることがない。

しかしこの若者くだらない論にもいくつか理由が考えられるので書いていきます。

結論から言えば大人が若者を見た時にくだらないと判断するのには文学的な妥当性があるように思えるのです。

 

若者と総称するのは主語がでかすぎるので個人主義的な考えをとる傾向にある若者群のことをここでは便宜的に若者と呼びます。もちろんこの種類の若者像とまったく違う若い人がいることも承知しています。

 

 

いまの若者は外部との接触を断って自らが好む関係の中だけに埋没していく。そんな個人主義社会に生きる若者ですがなんでこんな変な思考が形成されたのかに純文学の衰退が関係しているのではと考えています。文学なんてエンタメであって社会関係に影響してくることなんてないんじゃないの?と考えそうですし自分もそう思っていました。しかし純文学のみならず文学や音楽には社会的な役割がありそれが機能していた時代が確かにあった。

純文学の社会的機能で言えば夢破れたある個人の人生に言葉でもって意味を与えることです。太宰治をはじめ坂口安吾三島由紀夫小林多喜二などが何を書いていたかといえば成功からも遠く夢やぶれたきもくて金のないおっさんの人生にこそ人生があるみたいなことを書いていた。僕の世代では文学はすでに流行っていなかったのですが音楽がそれを教えてくれました。ミスチルのくるみ、B'zのAlone、WANDSの世界が終わるまでは、hideのhurry go roundなど純文学的な音楽が流行っていました。いわゆる宇多田世代で失恋ソングばかり売れた時代ですね。

[MV] Mr. Children _ くるみ (Kurumi) from kia tigers on Vimeo.

 

 

だから純文学を読む人はおっさんの話こそ面白いのではないかという姿勢を持つことができた。その姿勢で現実でも目の前のおっさんの話を純文学的に楽しもうと思った。くるみのPVを見ておっさんの哀愁にこそ大切なものがあると暖かい視線を獲得することができた。タバコを吸っているような臭くて汚いおっさんの中にこそ人間を見ようとした。だからおっさんから若者へのハラスメントまがいなことがあってもこの人の歪みは人間的だななんて思ったしきもくて金のないおっさんがいてもなんの他意も抱かなかった。

ふるくは小説、そして音楽へと移行していったこの純文学的姿勢はすくなくとも10年ぐらい前まではまだ現実の社会のなかにも生きていたのでしょう。インターネット黎明期のテキストサイトなども純文学的なものがまだ確認できました。

たいして今の若者は飲み会に行っておっさんの話を聞くのは時間の無駄だと考える。いまの若者を見ているとおっさんが迷惑だとしか思っておらずその純文学的姿勢のなさを僕はけっこう本気でくだらないと思っていたりします。

僕自身もかろうじて若者と呼ばれることがある年齢なのですがここ10年ぐらいで若者の純文学的姿勢の消滅たるやすさまじいものがあるように感じます。

 

 

 

たいしてそれ以前にも若者はくだらないと言われていました。

いまの若者が純文学的な姿勢のなさから批判されるのとはまた別に政治的姿勢、規律の欠落から批判されていたのだと思い返せます。純文学は個人の人生に焦点をあてる文学です。それとは別の文学として政治的人間を描いた政治的文学が存在した。

政治的文学とは夏目漱石森鴎外などトップエリートによって書かれたような文学のことをここでは言っています。文句を言わず働き規律を守りつづけてなんの感慨もなく死んでしまうような官僚だったり企業人だったりに文学を見た時代があったのだと思います。

純文学は夢やぶれた人にたいする態度を獲得し、政治的文学は黙々と働き続ける強い大人にたいする敬意を学ぶ。

純文学だけですと被害者意識に支配されやすくなるし政治的文学だけだと傲慢になる危険性がある。だからミスチルを聞き坂口安吾を読んで泣いてわめいている思春期の僕に大人達はそうやって泣いてわめいているだけだと「声がでかいだけの弱者になるから甘えるな」と政治的文学の立場から言ってきたのでしょう。それは時に体罰という形で行われることがあったり一概に肯定できるものではけっしてないですが、声がでかい弱者になるだけだから甘えるなは大人になったいまだからこそわかるような気がします。

つまり高度経済成長時に純文学的に生きて破滅したフリーターや夢追い人の末路を当時の大人達は知っていたのでしょう。だから純文学的な態度だけでは現実においては必ず行き詰ってしまうから「甘えるな」といった強さを教育していたのだと思い返せます。もちろんその限りではないかもしれません。あくまで推測です。

蛇足ですがいま大衆が政治家へ持つ一方的な悪いイメージは政治的な文学のなさにこそあるのではと捉え返すことも可能です。

 

 

政治的文学と純文学の死

その2つの段階を経ていまの若者を見た時に遂に文学は完全な意味で「社会的に」死んだと言えるのだろうなあとなんか素朴に思いました。もちろんまだ出版され売れているのもありますし読んで面白いものがありますがもはや読んで面白いだけでしかないのですよね。

音楽も聞いて心地いいバンド(フレデリック、BABYMETAL、perfumeなど)がいますけど聞いて心地いいだけでしかないのですよね。

個人の創作活動のいかんに社会的なレベルで批判することは野暮すぎますが昔はだれか個人のつくったものが勝手に社会的な役割を帯びて生きかたの或る規範として教育的に機能していた時代があり、今はそれがないのでしょう。ないし必要とされてもいない。それがいいことなのか悪いことなのかわかりませんがとにもかくにもそういう時代だと結論づけるしかない。

みんな好きに生き好きな人間とだけ話して好きな仕事だけして好きな国に住み好きなアニメを見て好きな人間とだけセックスして好きな数だけ子供を産んですきやばし次郎に行って好きだけで死んでいく。好きになられない人間は救いがない世界。若い女性におっさんがパワハラする文言を逐一あげてボロクソに言っていた記事があったけど究極的に言えば何をしゃべくりまわそうがそもそもそのおっさんのことが嫌いなんだから何言ってるかなんて関係ないでしょ。好きじゃない人間は嫌い。話を聞くのも嫌。そんな世界をつくっても確実にみんな大多数はきもくて金のないおっさんおばさんになっていくのだよ。

おそらくは過去幾度の個人が経験したそれよりもはるかに長い寿命の中で、さ。

 

すきやばし次郎[ぽん酢]

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