グレートすぎる。
MeTooするほどの強さを持てないヤツ、つまりほとんどのヤツは、その場にとどまって戦う道を選ばざるを得ない。MeTooは現状、現場で苦しむ人間の逃げ道としては機能しない。 そりゃ、幾ばくかの勇気と希望を与えることは出来るのかもしれないが。でも安易に乗ってしまえば、その後に待っているのは絶望だけかもしれないのだ。ミクロとマクロ、現在と未来、理想と現実をごっちゃにし、曖昧にしたままMeTooを語るのは無責任ではないだろうか。
悪いヤツらをぶちのめすには、ヤツら以上のパワーを持たなければならない。そしてもしそんなパワーがあったなら、最初からパワハラなど受けない。
MeTooってのはきっと、弱いままでも生きていける、やさしい世界、を目指しているのだろう、とは思う。だけど。その理想は素晴らしいけれど。それはあくまで、将来がそうであるように、ということであって、現実はそうではない。
グレートすぎる記事をふのいさんが書いていたので紹介
でこの記事でやりたいことはおおむね終了なのだがそれだけだと記事として成立しないのでふのいさんの記事を読んだ感想をすこし。
年末だし、本当にすこし。
ふのいさんの記事はなんというかつまり論理的原理と人間的原理みたいな話だと読める。パラダイムの絶望的断絶みたいな。自分はそう読んだ。
metoo運動が論理によって人が動くと考えられているいっぽうでふのいさんの記事は人間はそんな簡単なもんじゃねーよっていうツッコミだ。
現実と対峙するとは、とか。理想を語る(metoo運動)ことが抱える加害性、とか。二律性。感情の功利。裏と表しかないコインは振らないほうがいいんじゃないか、とか。
ふのいさんは自然の摂理って言葉を使っているけど人間の原理というか真なる多様性とは何かとかそんな話に読める。
metooは強者しか救わない。従来的な意味での強者に代わる強者が告発しているだけでそこが本質的な問題ではない。
従来のマッチョイズム的世界観が正義、自由、ネット的作法とかにとって代わるだけで強者が入れ替わるだけ。その変わった世界でも弱者は弱者なのか。じゃあ弱者が望む世界はなんなのか。地獄だと自覚しながら戦うことしかないじゃないか。そこに多少のいさかいは生まれ得ると書かれていた。
パラダイムシフトしても弱者は弱者じゃないか。
まったくの同意でしかない。
自分もスクールカーストのようなマッチョイズムには適応できなかったし、かといってネットで醸成されているような正論重視の漂泊社会にも適応できない。
おそらくこの手の問題は規範そのものが存在すること自体が抱える矛盾なのではないかと思う。
前々回の記事でも書いたように社会からカオス空間を排除していってすべてを問題化していることが問題じゃないかと。
それが絶対的弱者を救わない、と。
この話ってセカンドハーベストジャパンっていうフードバンクをやっている会社を創設した人が言っていることとつながる。
ホームレスなどに食料を提供している会社なんだけど食事を提供している側、提供される側という立場をつくるとうまくいかないみたい。だから食料は勝手に持っていってよくて感謝を強制しないということを言っている。
この無決定のなかにこそなにか救いみたいなものがあるとふのいさんの記事を読んで思い出した。
とにもかくにも良いお年を。