メロンダウト

メロンについて考えるよ

中国人の指摘がまさにといった感じなので抽象化して説明してみたい

中国人による日本論がまさにといった感じだった

gendai.ismedia.jp

 

全面的に同意するのだがもうすこし噛み砕いて説明してみたい。

 

 

大前提としてあるのは宗教的背景のなさゆえの価値相対化のなさにあると考えられる。

日本人に最もなじみが深い仏教にしても無信仰、解脱、中道など価値をあえて決めないことを価値とするような概念が存在する。

これら自体を否定するわけではないがこれらの概念は生活レベルにおいては「無謬性」にすりかえられて使用される。

無謬とは価値を決めない、立場を決定しないことで相対化から逃れる立場のことであるがこれが変な意味で処世術として流行しているのが日本の議論の根幹を成しているといっても言いすぎではない。2ちゃんねるはてブなどまさに無謬の巣窟である。

インターネットでもなんでもそうだが価値を決定して立場を決めてその立場から発言することを無謬性によってぶった切るのは現実にもネットにもありとあらゆるところであふれかえっている。

政治においても一般的には保守対リベラルという構造があるように「映る」が実際にはその多くは保守対無謬とリベラル対無謬と捉えたほうが実際の構図としてはより正確だろう。

保守を否定する時に無謬家はリベラルの論理をひいて批判しリベラルを批判する時も保守の論理をといった具合だ。

 

これは仏教においては中道と呼ばれ重宝される概念でもあるが無謬や中道をコミュニケーションの現場において権威的に使用しはじめた場合これほどの暴力はない。

日本人のこの無謬依存とでも呼ぶべき性質。これが正義のなさ、議論の下手さ、またさらに明言のなさということに接続する。ゆえに下記文章にはうなづくしかなかった。

私は日本人が悪であると言いたいわけではない。彼らは極めて誠実で善良だ。ただ、彼らの骨身になんら明確な正義の概念がないだけである。彼らはなにが正しくてなにが間違っているといったことを明言することができないのだ(以下略)。

 

 

さらに記事内で気になったのが”深刻な怯懦”という言葉だ。

怯えや勇気のなさという意味であろうがこれも上述した無謬感ゆえの擬似全能感が原因のひとつであると考えられる。

 

しかしもうひとつ原因として考えられるのが自虐史観戦後レジームなど歴史的に醸成されてしまった敗北主義的思考法やアメリカ追従路線で政を行ってきた従米依存とでもいうべき歴史が背景にある。

日本は政治的には戦後ずっとアメリカに追従して大国の庇護の元に安全保障を行ってきた。これは市民の考えにも浸透していてアメリカといえばアメリカンドリームや世界1の大国だといったある種の妄想が個人の思考回路にまでメディアを通じて浸透してしまった。

海外からの目を異常に気にするのは敗戦国でアメリカ追従という歴史的背景を無視して考えることはできないだろう。だからというわけではないが敗戦後、グローバルで対等な関係になり市民の劣等感をぬぐうのはいまだに過渡期だと言える。

核爆弾で焼けたのは広島や長崎だけではなく思想までもなのかもしれない。

4.なのに日本人は非常に他国からの目を気にする。「外国人が大好きな日本の○○」といった話が非常に流行っていて、取るに足らないくだらないものごとを見つけて「世界で日本が大人気」といった曲解をおこないたがる。

 

世間からの目、外国からの目、宗教観のなさ、そして無謬性。

これら主体性のない価値観とも呼べない価値観が集まっているのが日本の大衆思想ということができる。これらの価値を一定の基準で相対化して価値を「計る」のが宗教のひとつ社会的な役割とも言えるのだが価値基準となる宗教は日本にはない。

これらの目や批判をやりすごすために用いられるものにまた無謬をひいて価値を無意味化し結論として多様性を用いる。日本では無謬性のためにアメリカの多様性を輸入していると言える。相対化なしの多様性が無謬性だ。これが日本の議論における最大の癌だといっていい。

無謬性を補填するために多様性を援用しているのが日本のそれなのだろう。

つまり日本で一般的に言われる多様性という言葉ですべてを宙ぶらりんのまま決着させる価値観=無謬性が根本的な問題だと言える。かなり抽象的ではあるが。

 

そうしてすべての価値は比較することすらされず、ゆえにそこには相対もない。ゆえに相対化の対象を見つける冒険心が生まれようもない。そして相対化なしに正義は生まれない。

日本人はこうした純粋さや勇敢さや「ものごとをもっと知りたい」という冒険心をまったく失っていて、自分たちの世界の狭さを感じるときがあっても「まあ仕方ないや」と自分を慰めるだけで終わる。

 

 

今年一番うなづいた記事だった。

最後にオルテガの言葉をひいて終わりたいと思う。現代日本の無謬性のことを予言しているようでならない。

 

世間とは意見を持とうと努力しないものたちの意見の集まりである