メロンダウト

メロンについて考えるよ

「共感されにくい人達」は「権利」で救われるのだろうか

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読んだ。その通りだとも思う。僕達はおっさんよりも少女のほうに同情する。アニメなどのコンテンツで美少女が頻繁に使用されるのも共感の集めやすさゆえだろう。

記事の論旨をあえて悪しきように言えば「僕達はおじさんに共感しなくていい、けれど権利は守ろう」というふうにも読める。もちろん著者が言いたいのはそういったものではない。しかし共感と切り離して権利という概念を救済を駆動するものとして持ち出すことは本当に正しいのだろうか・・・

というかそれは「別の話」なのではないかと僕は思う。

 

おじさんに僕達は共感しないと自明なものみたいに言うけれどおじさんが欲しいのは権利による「物」じゃなくまさに共感そのものなのではないだろうかと思うからだ。

現実にも酒の席でおじさんが延々と同じ話を繰り返し話していることがよくある。彼らが同じ話を繰り返す理由がまさに共感してほしいからだろう。同情といいかえてもいい。おじさんはただ座っているだけでは共感されないから同じ話をする。

逆に若い女性は無口でおしとやかに座っているだけなことが多い。彼女達はおじさんのように話をしなくても存在するだけで同情や共感の対象として扱われるからわざわざ自分の話をしないのだろう。

おじさんに共感するのに僕達は物語を必要とする。だからおじさん達はその物語を忽然と話しつづける。

最近は若者もそんなおじさんの話につきあってられないみたいな風潮があるみたいだがそういう感情的な切断を許す社会はあまり良い社会とは言えないと思う。おじさんを承認しないという「自明の前提」そのものが問題の根幹にありその前提は覆らないから権利を持ち出して救おうというのはこれはある意味で論理のすり替えだと言っていい。

基本的人権は国家の論理であって社会的な意味での個人の論理、であってはならない。僕達はおじさんのくだらない話を聞くべきである。

 

 

おじさんを「権利的」に救済しようというのは絶対に正しい。しかし物質的な貧困と存在の不安とは分けて考えなければいけない。人間は食べて寝てセックスするだけで生きていける動物ではない。

物理的な貧困を解決するのはたとえば政治であったり法律、人権団体、NPONGOなどあらゆる公民の支援組織によって可能だろう。しかし自己存在の不安=承認の問題を解決するのは国家の問題ではなく社会の問題ひいては個々人の問題である。権利によっておじさんを救済するから僕達はおじさんとは距離をとって生きていいということにはならない。国家が権利的、物質的に救済することと僕達がおじさんの話を聞くことはまったく別の話だからだ。社会的な承認を構成するのは個々人によるコミュニケーションでしかなしえない。

 

別の話と書いたけれど上記は僕達が持つべき眼差しの話であって

おじさんの「生」自体の中では物質的な豊かさと存在の承認は必ずしも別ではない。おじさんにただ食料を与え住みよい家を与えるだけでは一時的な救済にすぎず自立して生きるのには承認が必要だ。承認されることでバイタリティーが生まれ理性につながることではじめて自律することが可能になりそこではじめて人のために働き、他者に承認を繋ぐ人間になれるしその結果として物質的なものもついてくる。

承認欲求はなぜか悪い意味でとらえられがちだけれど承認、共感を求めることこそが理性をつくると言っていいだろう。

人と承認しあいポジティブに繋がることはいまや単一的な常識として語られることが多いが本来は人に承認され共感されることで別の他者にたいしても寛容でいられるものである。子供を見ればよくわかる。親に愛情を与えられなかった子供は社会的に生きにくい人間になってしまうが、大人になっても程度の差こそあれそれは同じだろう。

つまり承認や共感の獲得構造から外れてしまったおじさんが他者と繋がれなくなり貧困になるというのは人間の心理的な構造として当たり前の結末だと僕は思うのだ。なぜなら人にとってえてして孤独だけが問題だからだ。貧困になり孤独になったおじさんに物を与えても物質的な基盤だけではうまくいかない。孤独な人間がなにか自動的に内発的な動機をつくることなどありえない。他者の承認によって精神的な基盤が与えられそこに理性が宿り生活の基盤が生まれる。

 

貧困になったおじさんを権利的に救済すること以前に僕達がやるべきはおじさんの話を逐一聞くべきであっておじさんの哀愁や悲壮にも価値を認めることではないのだろうかとそんなことを思った。