メロンダウト

メロンについて考えるよ

死ぬ権利について

ぼくたちはなぜAI美空ひばりのことを冒涜と思うのだろうか。

死後に音声技術で再現された楽曲が発表されたアーティストでいえばhideの「子ギャル」などもそうだけれどhideの場合にはデモ音源があったため、本人が曲を発売する意志が生前に一応は確認されている。アルバム作成段階で亡くなってしまったためプロデューサーとの打ち合わせもされていたみたいである。しかし美空ひばりのそれは本人の意志が及ばないところで行われている。

 

ここで問題となっているのは本人の意志が介在しているかどうかの一点のみであるけれど、しかしなぜ僕達は生者と死者をこうも別な存在として扱うのだろうか。本人の意志が介在されない使われ方をしている例で言えばドラえもんなどもそうであるけれど、ドラえもんを批判する人は多くない。

ブラックジャックもそうだし鉄腕アトムもそうで、もっといえば織田信長武田信玄が美少女化したりパチンコになっているのも本人の意志は介在していない。

見た限り織田信長が美少女化した自分を見たらどう思うのかを考えてつくられてはいない。織田信長は現代においてはネタ化していて特定の人間ではなく歴史上の誰でも知っている「人物」(人という物)でしかなくなっている。それが織田信長にたいする冒涜だといえばまあそうなのだろう。一人の人間を複数の形で勝手に解釈し、表現するのは織田信長という人間への冒涜と言える。

 

AI美空ひばりは技術として新しいだけであって死者の意志を介在しないまま二次創作に使われている例はいくらでもある。いくらでもあるからといってそれが正しいとは限らないわけだけど、AI美空ひばりを問題にするのであれば他の二次創作も問題にしなければいけなくなる。ちなみに僕はそういうもの全般に関して反対の立場をとりたいと思っている。かぎかっこをつけるならそれが継承という形をとっているかでも変わるけれど。たとえば作品のテーマを引き継いでいたり概念的、設定的に参考にしたりするとかそういう形であればそれはメタなレベルの話で済む。しかしベタなレベルでその「本人を使う」というのであればそれは倫理の話をするしかなくなる。

 

この手の話はその人の死後、作品を楽しむみたいな話とは少々違ってくる。僕達が生前にその人が残した作品をどれだけ楽しもうとそれはその人の実在、実存を侵食することにはならない。物はそこにあるだけでありそれは絶対的に物でしかないのだから。その物を批評して解釈や注釈をつけて議論することはあってもそれは本人の表現の外には出ずその物の解釈を広げるだけに留まる。

ただAI美空ひばり織田信長のように当人の実存を付与したものとして(勝手に)表現するとなると全然話が違ってくる。それは物の拡張ではなく当人その人を拡張することにもなる。そうなると当人の許可を取らなければいけなくなるがその当の本人はいないので失礼にあたってしまう。

たとえばわかりやすい例でいえば誰でもいいから死後、罪人として扱われることを考えればわかりやすい。その人が死んでいるから被疑者死亡という形で便宜的に殺人事件の犯人に検察がしたとなればそれは社会正義としても逸脱しているうえに倫理的にも許されることではない。

死後、その人が死んでいるからといって・・・いや死んでいるからこそその人の実存や名誉に関しては厳正に取り扱うべきだろう。

仮にポジティブな扱われ方をされていたとしてもその当人がそれを望んでいるかは知りようがない。本人の意志を確認しようがないのだからそれがポジティブなのかネガティブなのかはわからない。

そういうふうに考えることもできるし、そう考えたほうが正しいのではないだろうか。

 

と書いているけれどこういうことを考えたのも山下達郎さんの発言を知ってからであって実際に紅白を見ていた時には

すげえ、本物みたいじゃんなどと小学生みたいなことをお酒に酔いながら言っていたのであるが・・・

 

なんにせよ人間には死ぬ権利がある。死者を生きさせることはその根底を揺るがすことでもある。

この世界で生まれた人間の究極の権利は死ねるということである。たとえどんな地獄のような人生であろうと結局は死ねるのである。死ぬことが絶望や悲劇ととらえられているけれど僕はそうは思わない。どうせ死んでしまうことと結局死ねるとでは違うのだ。死ねないか死ねるかで言えば死ねたほうがいいに決まっている。

 

近未来SFとして描かれている海外ドラマ「ウェストワールド」で自分を人間だと錯覚している死なないアンドロイドが出てくるけれど

死は侵されざるべき権利であって死んだら終わりというのはこれまでは事実だった。しかしこれからは倫理としてとらえなければいけなくなるのかもしれない。