メロンダウト

メロンについて考えるよ

治安における体感は大事な「ファクト」だよ

日本の治安が他国と比べて相対的に良いと書いた記事についたブクマを批判する記事

 

anond.hatelabo.jp

 

殺人件数を論拠に日本の治安が良いことは昔から言われてることで日々のニュースから受ける印象より日本は平和になっている。それは事実そうなのだろう。

ちょっと前までは暴走族とかカツアゲする人とか問題になっていたけれどそういう荒っぽい人間も最近は見なくなった。煽り運転ぐらいですけどあれも件数自体は減っていそうです。殺人件数も減っているし日本の治安がよくなっていることは間違いない。

だから元記事

[B! 犯罪] 日本から出たことがないのでわからないのですが、日本は本当に治安が良いのですか?に対する松本 貴典 (Takanori Matsumoto)さんの回答 - Quora

にたいしては特筆してコメントすることもなかった。

しかしブクマではこの記事にたいして「それはそうなんだけど・・・」という趣旨のコメントがたくさんついていた。それを増田で批判しているのが冒頭の記事なんですけど、このやりとりに何か大きな違和感を持ってしまった。

 

 

日本の治安が良いこと(事実)と日本の治安が悪いと感じること(体感)はそれぞれ別の問題としてとらえるべきだと思う。どちらが事実かで語れば事実のほうが勝つに決まっている。

問題はなぜ僕達はこんなにも平和な日本の治安が悪いと感じることがあるのだろうか。

そういう問題設定をしたほうがいい。日本の治安の良さと体感する治安とはズレが生じている。そのズレを感じることも心理的で曖昧なものではあるが当人にとってその感情は事実としてあるのだから。そのズレはどこからきてどういう影響をもたらしているのか、それは日本が平和だという事実とはすこし違うアプローチが必要になってくるだろう。

 

 

・まっさきに考えられるのがメディアがネガティブなニュースばかり流すことである。

視聴者もネガティブなニュースのほうを見たがるのでメディアもそれに応じてネガティブなニュースばかり出す。これだけ平和な日本とはいえ個別のニュースとして報道するには十分なほど事件は起きている。殺人件数などの総数が報道されることは稀だが毎日ネガティブなニュースを報道するには殺人事件の総数が1万件だろうが1千件だろうが関係がない。たいした差ではない。アメリカもイギリスもニュース番組の時間の関係上、報道される殺人事件の数は日本とそう変わらないはずである。その意味でメディアによるニュース番組からは「体感」できるほど日本が平和だと感じることは難しい。

 

 

・次に考えられるのがプロスペクト理論である。

プロスペクト理論はものすごいざっくり言えば人間は得よりも損のほうに反応する生き物だといった行動経済学における理論のひとつです。損失回避とか確実性効果とかいろいろあるんですけど詳しくはwikiのリンクを貼っておきます。

プロスペクト理論 - Wikipedia

質問1:あなたの目の前に、以下の二つの選択肢が提示されたものとする。
選択肢A:100万円が無条件で手に入る。
選択肢B:コインを投げ、表が出たら200万円が手に入るが、裏が出たら何も手に入らない。
質問2:あなたは200万円の負債を抱えているものとする。そのとき、同様に以下の二つの選択肢が提示されたものとする。
選択肢A:無条件で負債が100万円減額され、負債総額が100万円となる。
選択肢B:コインを投げ、表が出たら支払いが全額免除されるが、裏が出たら負債総額は変わらない。
質問1は、どちらの選択肢も手に入る金額の期待値は100万円と同額である。にもかかわらず、一般的には、堅実性の高い「選択肢A」を選ぶ人の方が圧倒的に多いとされている。

質問2も両者の期待値は-100万円と同額である。安易に考えれば、質問1で「選択肢A」を選んだ人ならば、質問2でも堅実的な「選択肢A」を選ぶだろうと推測される。しかし、質問1で「選択肢A」を選んだほぼすべての者が、質問2ではギャンブル性の高い「選択肢B」を選ぶことが実証されている。

この一連の結果が意味することは、人間は目の前に利益があると、利益が手に入らないというリスクの回避を優先し、損失を目の前にすると、損失そのものを回避しようとする傾向(損失回避性)があるということである。

質問1の場合は、「50%の確率で何も手に入らない」というリスクを回避し、「100%の確率で確実に100万円を手に入れよう」としていると考えられる。また、質問2の場合は、「100%の確率で確実に100万円を支払う」という損失を回避し、「50%の確率で支払いを免除されよう」としていると考えられる。

 

 いわゆる事実を事実として受け止めろというのは経済学的には30年前には終わっている話なんですよね。人間は単純な金額一つとっても損をするか得をするかでその金額の(体感的な)価値が変わってくる。得をする状況だと確実性の高いほうを選び損をする状況だと損を償却できる不確実性をとる。

上記引用部分の金額の部分を治安に変えて価値の部分を体感にするとわかりやすいかもしれない。日本の治安の良さがそのままその数字で受け入れられずみんなが体感の話をするのはある意味あたりまえな反応であって、事実としての治安の良さよりも体感が悪くなるのは必然である。

 

 

閾値

単純に希望する治安の水準が高いのではないだろうか。

治安の比較という意味で他国との殺人件数を論拠とするのであれば不満の比較についても論じなければいけないはずだ。たとえばセクハラなどが日本では問題となっているけれどアメリカのテキサスでそういう話をしたらジョークとしてしか受け止められないだろう。テキサスが例として違うというなら男尊女卑が根強い地域でもかまわない。

治安が違うとは環境が違うということであり、環境が違えば人々が持つ感情も違ってくる。どういう環境であれ人は不満を持つが日本は治安の良さに比べると不満を持ちやすい環境だと考えられる。日本はこれまで中流階級が多く横並びだったため上下の多様性にたいする胆力がないことがひとつ挙げられる。おおざっぱにでも横並びだった時代と比べると自分よりも「下の人間」を見つけることが簡単になり、勝手に下の人間を危険人物扱いしたりする。公園で寝ていただけの男性を通報したりしたニュースもあったし不審者にたいする判定も日本はかなりピーキーだと言っていいだろう。そういったあらゆる閾値の低さから日本は治安が悪い=閾値に届いていないと感じる人が多くなっているのだろう。

 

 

・完璧主義

日本の悪癖としてとりつくろうというものがある

最近だとオリンピックが開催するから室内を全面禁煙にしたり海外の人達が迷惑するから自分達の環境をとりつくろうことに躍起である。海外の人達もタバコは吸うのでそんなことしたらポイ捨てだらけになると誰もつっこまなかったのだろうかと思ったりもするけど。あとは突起のついたベンチを公園においてホームレスを排除したりもそうだが何も政府行政だけではない。

日常でもみな来客には気をつかい清潔にするし、飲食店や施設でも過剰なまでのサービスをする。とにかく相手に失礼でないサービスと「環境」をつくる。

治安の良さに関して言えば日本の環境はまだ取り繕えていないのだろう。かぎかっこつきで完璧にはとつけるべきだが。完璧ではないという意見が力を持つのは大変日本的だなと僕なんかは思ったりする。喫煙所の件ひとつとってもそんなに完璧にクリーンにしたらむしろ完璧ではないだろと逆に気持ち悪くならないのだろうか。

完璧主義はいろいろなところで見られそれは国民性と言ってしまってもいいかもしれない。すくなくとも支配的ではあるだろう。

そんな潔癖さで治安を見たら体感的には悪いものとなる。

 

 

 

日本の治安が良いのは事実だけど日本の治安が悪いと感じている人がいることも事実だという反論も許さないのは言論としてはものすごく気持ち悪い。

その気持ち悪さを千葉雅也氏はエビデンシャリズムと呼んでいた。

10+1 website|アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い|テンプラスワン・ウェブサイト

反知性主義」において、恣意的にエビデンスを無視したり、恣意的にエビデンスめいたものを喧伝することがあるとして、本稿はその手の「行動力」を支持するものではない。整理しよう。(1)エビデンシャリズムの過剰化に抵抗するという意味で、どうでもよさを擁護する。かつ、(2)どうでもよさを擁護するにしても、ランダムにあるいは恣意的にどうでもよいのではなく、どうでもよさの「ある程度」を判断しなければならない。これは、裏返して言えば、何にどういうエビデンスを要求するのかを一律に形骸的に細かくするのではなく、その「ある程度」をケース・バイ・ケースで判断することがあってよいという権利を確保することである。

 

エビデンスに基づいた言説「しか」認めないってのは権利の侵害に近い。日本の治安が良い事実があったとしてもケースによっては日本が治安が悪いと言ってしまってもいいはずである。

そんな違和感があったから書いた。長くなってしまった。おやすみなさい。