メロンダウト

メロンについて考えるよ

ゲーム依存はあるがそれは出口としてのみ存在する

香川県におけるゲーム規制についてはてなではどうもゲーム規制には反対の立場の人が多いみたいだけれど、僕はよくわからないでいた。

ゲームに関してのみならず依存症全般について本当のところ何が問題なのかあまりにも明らかになっていないのではないだろうか。みんな本当のところ依存症というあまりにもあやふやな病についてどの程度わかっているのだろう。

実際、ゲームが依存性を持つことはあると思う。フォートナイトで人生ぶっこわれた人も世界中にいるだろう。中国ではFPSのやりすぎで過労死したといった報道もあった。他にもギャンブルや覚醒剤は当然として買い物依存症もある。アルコールやカフェインもあるしなかには水依存というのもあるらしい。最近だとSNS依存、スマホ依存、ネット依存などもある。

依存症について検索していると~~依存はかなりの種類がある。それらすべてを依存性物質として規制するのは無理な話だ。水依存の人がいるから水を規制しようとはならない。検索していて気になるのは~~依存の~~の部分はほとんどなんでもあてはまることである。本当に問題なのは依存している「状態」のことを指しているのではないだろうか。

それはこちらの動画

依存症についてあなたが知っていることはすべて間違っているでも述べられている。英語なので英語が得意でない人は字幕をONにしてみてほしいのだけど

www.youtube.com

 要約すると依存というのは孤独、あるいは悲しいという状態とほとんど同義だと述べている。そしてそれを解決するには悲しくない状態=繋がりを再構築することが依存症の解決方法だと。

 自分の狭い観測範囲でも友人が多い人や闊達な人は依存状態に陥ることが少ないように見える。お酒におぼれるのはだいたい何かがうまくいかない人や孤独な人だったりする。タバコをやめられない人もタバコの煙にしか思いを吐き出せない人だったりする。

なにぶんそんなに長く生きていないので断定的なことを言える歳でもないけれど人間にとって孤独だけが問題なのではないか。そんなふうに思うことがある。貧困や病気など悲劇はいろいろあるけれど孤独ではないうちはまだなんとかなるように見える。孤独だけが問題だとすれば依存症はその表層でしかないのではないか。

厚労省のページなど見てもそれは見てとれる。

依存症に共通することは、家族とのケンカが増える、生活リズムがくずれる、体調をくずす、お金を使いすぎるなど何かしらの問題が起きているのにも関わらず、
ほどほどにできない、やめられない状態に陥っているということです。
このような状態にある場合、依存症と同じように対応を考える必要があるといえます。

依存症のことを考えるときに大事なのは、そのことによって本人や家族が苦痛を感じているのかどうか、
生活に困りごとが生じているのかどうか ということです。
本人や家族が苦しんでいるのであれば、それは改善が必要な状態ですので、依存症に関する正しい知識を身に付け、
適切な対応をとっていくことが必要といえます。

「本人や家族が苦しんでいるのであれば」の部分は本人や家族が苦しんでいるのでなければそれは問題ではない、依存症ではないと読むこともできる。

ゲーム依存の議論が出てきてからいろいろ調べて見てたけれど依存症はうまくいっていない状態における出口でしかないのではないだろうか。

香川県議がゲームをやるとニートやフリーターになると発言していたけれどそれは完璧に因果関係が逆である。ニートのような孤独な状態になるとゲームに依存する「状態になる」と言ったほうが正確だろう。リストラされたお父さんが家で昼間からお酒を飲むようなものでそれは酒が原因なのか孤独やうまくいっていない状態が原因なのか考えるに明らかに後者、つまりうまくいっていない状態が原因だと言える。

本当にゲームが依存性物質として問題であるのならばeスポーツのプロゲーマーも依存症患者と呼ぶべきとなるけどそうはなっていない。彼ら彼女らはゲームで生計をたてて仲間とゲームをし大会などで世界と通じているので社会性があるから孤独ではないゆえに依存症とはならない。部屋でひきこもってゲームしているニートとやっていることは変わらないのに、である。両者を比較すれば問題はその人が孤独であるか、孤独ではないか、お金を稼いでいるか否かとなる。両者には実存的な違いはなく問題はその人がゲームをしているのかさせられているのかとなる。

つまりゲーム依存は確かにあるがゲーム依存はそれ以前の状態によってゲーム依存者であるかどうか判定されてしまっている。その意味でゲームがニートやフリーターをつくるのではない。ニートやフリーターが暇だからゲームをする。そんな当たり前の結論を香川県議はなぜわからないのか。

なのでありていに言ってしまえばゲームは社会だと認めてしまえばいい。FPSでチームをつくるのも社会だと。スプラトゥーン甲子園に出場するのも高校野球と同じだと。市場化し、社会として成立させ、お金を流通させて技能として認めてしまえばいい。

そうなると永久に現実に働かなくなるといった批判がきそうであるが現実に働くというのもけっこう意味不明な命題である。現実に働いていてなんの役にもたっていない仕事などごまんとあるしリモートワークしているエンジニアなども「現実に」働いているわけではないと香川県からしてみれば言えてしまうだろう。PC依存という難癖をつけるのかもしれないが。

 

社会が社会として成立するには他者からの承認が必要であって依存症と言われる状態も承認不足の一種が社会性の欠如と見られているわけで

ものすごい素朴に言ってしまえばそんなもの単に認めてしまえばいいじゃんとしか思わないのだ。認めたくないのであればすくなくとも依存などという言葉を使うべきではない。