メロンダウト

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Re: 発信するということ

検察庁法改正案に関して著名人が抗議ツイートしてそれにクソリプがつくという事態および村本さんが書いていた「発信するということ」についてだけど

note.com

自分も似たような記事を書いたことある

plagmaticjam.hatenablog.com

 

この手の話は定期的に出てくるもんで芸能人だけでなくグレタ・トゥンベリさんの時や中学生を装って選挙のPRしていた大学生もそうだった。

村本さんもそうだった。朝まで生テレビ井上達夫氏や小林よしのり氏に愚民扱いされネットでは袋叩きにされそういう叩き潰しがいかに「効く」か体感としてわかっているのでしょう。

あの時ははてブでも村本さんが無知だと袋叩きにしてたけど今回の記事には肯定的なコメントが散見される。はてブダブルスタンダードは今に始まったことではないのでどうでもいいけれど普段叩きつぶしてる側が何を言っているんだと思わないでもない。彼が言っていることは朝生の時から変わっていないのに。今回の記事にあるような無知の知を朝生で憲法学者相手に地でやっていて「1から説明してください」と言っていた。彼のスタンスは昔から変わっていない。

 

僕は過去記事でも書いた通りおおむね村本さんの意見に同意するのだけど同時に政治をそうやってソフトな場所に変えていくことにたいして疑問も持っている。いわゆる表現の自由的に政治的な発言も表現みたいに取り扱うことには反対したい。

ツイッタークソリプしてる人は論外だけどクソリプはただのマウンティングでしかなくてそれとここで議論されている政治的無知はまったく別の問題であると思う。いわゆる教養やリベラルアーツの問題に近い。

今の政治論壇は横割りになっていて上から物を教える知識人とそれを拝聴する民衆みたいなことになりがちである。知識人は自分がどれだけ知識があるかで価値が決まりそれに応じてメディアや執筆の仕事がくる。ゆえに公の場で「知らない」と言うことができない。あるいはコメンテーターもそうだが何か発言しないと仕事にはならないので頓珍漢なことをいってひんしゅくを買うのをよく見る。 

その言葉をメディアで聞いている人は自分に都合の良い発信者を見つけて誰々だから信用できるというランドマークをたてることによってほとんど盲目的に信じることになる。その出会いがほとんど偶然であるにも関わらずだ。例えば虎ノ門ニュースだったり、NewsPicksだったり偶然出会ったメディアでそれらしいことを言う知識人を見つけ「彼、彼女は頭がいいし信用できる」と思うようになる。そしてそのメディアを見て政治を情報としてインストールすることによって自分は政治リテラシーが高いんだと自負する。その自負を持ってしてきゃりーぱみゅぱみゅに「無知は政治的発言をするな」と言うのだからなんだか地獄めいている。

 

そもそも政治は情報でどうにかなるものではない。もちろんエビデンスや歴史など知識として必要なものもあるがそれですべてが計算可能ならいまだにケインズ主義と自由主義が反目していたりする理由が説明できない。あるいは単純な右と左でもそうである。個人の感情が違ければ政治的なスタンスも違う。個々人によって世界の見方が違うので当然そうなる。しかしその世界の見方、政治的スタンスが本当に自ら考えたものであるのかは疑うべきである。それは誰かに与えられただけのものなのではないか、と。

政治のみならず文系学問の多くは答えを出しにくいか、もしくは永久に答えが出ない類の議論がほとんどだ。その点でいわゆる科学的な意味における無知の知と政治的な意味での無知の知は分けて考えるべきである。

科学的な文脈における無知の知は「自分は知らないことのほうが多いから知りに行くべきだ」というふうに読める。あるいは好奇心こそが大切だと素朴に言うこともできる。一方で政治的な無知の知は「自分は知らないことのほうが多いから知りに行くべきだ」までは一緒だが文末に「知りに行ったとしても永久に知ること=答えを見つけることはできないかもしれない」と付記される。

だからといって全員が無知で政治的知識なんてものは勉強せずに私利私欲で発言していいんだとはならない。そのバランスが難しい。ちょうど検察が話題だけど検察の独立性が担保されることによって汚職を防ぐ機能として働くのと同じようなものだ(もちろん完全に独立させた場合、検察自体が独裁的になるので逆に国家や国民による監視も必要)。あるいは三権分立によって国会、内閣、裁判所がバランシングされるように政治的発言においても個人の独立的な発言は許されるべきだがバランスは必要である。右寄りの発言をしたら左の人から批判される「べき」であるし逆もしかり。単に無知の知として民衆は自由に政治的発言をしてもいいということはほとんど片手落ちの考えだ。政治は常にバランスの上に成り立っていてそれは個人の発言に関しても同様の措置がとられるべきである。そうしなければすぐ知識人が啓蒙した思想に染まり先鋭化するようになる。その点で自由な発言は大事だが同じくらい批判も大事なことだと言える。

 

なぜこんなことを書いているかというとつまり政治をライトに議論ができる場として開き自由に発言することが大事なんて言うと自由主義に敷衍されて逆に振り切れることが目に見えているからである。今でもすでに先鋭化していて右は右、左は左で固まっている。誰しも批判はされたくないので当然の現象だけど上述したように政治は常にバランシングされるべきでその点で自由に発言し、自由に批判を回避していいんだと言ってしまうことは弊害を生むのではないか。そんな危惧がある。

政治について何も知らない人が政治的発言をするのは完全に自由だがそれを持ってして何を言ってもいいとはならないしなるべきではない。叩きつぶしてもいいけど叩き潰されるべきではない。つまるところ強くあるべきだなんていうとマッチョイズムみたいだけどそうでもないとこんな不毛な文章は書けないのである。