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はじめにネットがあった

このへんの記事だけど

恋心すらセクハラ…若い男性が抱える「新しい生きづらさ」(清田 隆之) | FRaU

生きづらさすらセクハラ…おっさんが抱える「新しいキモさ」

 

フェミニズムとかポリティカルコレクトネスのやっていることってたとえば豚や牛の頭を切り落とした動画を世界に公開して君達はこれを食べていると宣伝しているようなもので

幽遊白書の樹(いつき)的に言えば「キャベツ畑やコウノトリを信じている女の子に無修正のポルノをつきつける下卑た快感」に近い。実際、そうやって真実を喧伝するのはとても気持ちのいいものである。

当然ながらフェミニズムという考え方にも加害性はある。上記の記事のように繊細な人間はまともに受け取ってしまい恋愛ができなくなる。豚も牛も食べられなくなる。僕たちは自らの加害性について知らないことで生きていける。みずからの加害性について自覚しろというのが今の潮流であるがそんな単純な話ではない。知らないほうがいいことも世の中にはたくさんある。

それにたいして知るべきだというのは暴力である。情報公開がリベラルやポリコレの根底にあるがその情報で傷ついていく人をどうするのか彼らはあまりにも無自覚であると思う。セクハラはいけないという言葉は正しい。しかしセクハラはいけないと言ってしまうことに対する反応について彼らは考えない。正しいことが正しいだけでおさまるのはネット上だけでそれが人間の心にどう影響するのかはまた別である。

すこし難しい言葉を使えば事実確認的発言と行為遂行的発言と分類されるが前者は事実をそのまま発言することであり真実か偽かが正しさの判断基準となる。

しかし後者はその発言によってどのような行為が遂行されるかという間接的な影響についてを考える。その発言がプラグマティック(実効的)なレベルにおいてどのような事態になるのかを考えるべきだという意味である。

 

ハラスメント問題も事実としてそういうものは確かにある。しかしそれがフェミニズムという思想になって政治化した瞬間に行為遂行的な文脈で判断されなければならない。

正しさを語ることはセンシティブなもので事実が事実として済むのであれば思想なんていらないのである。事実が事実だけで処理しきれない事態のために思想や理念はあってその意味で事実を事実としてしか宣伝しないラディカルフェミニズムやネットリベラルの言うことは完璧に無視したほうがいい。

事実としてそういう問題があってその問題が大問題であるにせよそれは事実としてのみ処理すべきである。フェミニズムもポリコレも僕たちの心に思想としてインストールすべき、ではない。男女平等もセクハラもそれは単なる「事実」に過ぎないのだから。起きた事実や起こりうる事実にたいして予測するのは知識ではなく想像力のほうである。

 

こういった思想や啓蒙などについてインフルエンサーはあまりにも無自覚なのではないか。というかものすごいベタなレベルで言うと知らない誰かにこう生きたほうがいいなんてバーンと言うことにたいする違和感は持たないのだろうか。

情報社会という言葉で認知されてしまったおかげで僕らは情報や啓蒙についてあまりにも無防備であると思う。僕がはてなブックマークにコメントを書くのをやめたのも結局はそういう文脈で自分が発した言葉がどのように相手に届くかわからないのである。とくに「コメント」のような場合には。

 

事実や経験を拡散するネットメディアの特性は良いものだった。あるいはそれ自体が個別的な思想であった。マスメディアのようなポジショントーキングがされないネットは良い場所であった。しかしネットが大衆化した瞬間に事実がそのまま思想になってしまった。その意味での弊害が今日のような状態なのだろう。

以前にもハッシュタグmetoo運動が盛り上がった時があったがあれらが何十万もリツイートされたり拡散されることに違和感があった。ブログにも書いたと思う。その発言がいかに事実として正しいことでも個別の事実がそれだけの影響力を持つべきではないと直感的に思うほうがむしろ普通である。炎上やバズなんてのは最悪である。事実が事実として爆散するあやうさは事実がそのまま思想になることにある。

真実は薬でもあると同時に毒になる。事実を信奉している人が多い今の時代は特にそうだと思う。ハラスメント問題も周知されたことで件数としては減っているのだろうしそれは薬として機能してるのだろう。今の時代、ハラスメントは解雇だけではなく社会的信用にまで紐づいているのでみな注意するようになっている。その一方で恋愛できなくなる人もいる。そしてそれにたいしてはフェミニズムを情報として啓蒙した側、あるいは事実を事実の範囲を超えて喧伝した人に責任がある。

 

キリスト教的に言えば「はじめに言葉があった」のである。

はじめに人間がいるのではない。

はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。

言葉を発した側に責任はある。逆に言えば言葉には責任がともなう。何十万もリツイートされてそんな責任どうすんのと思わないのが不思議でならない。

キリスト教と違うのは言葉を発した神が十字架に磔にされることがないことであるが。