メロンダウト

メロンについて考えるよ

ダブルスタンダードという批判は間違っている~嘘をつけない社会がつくる嘘の社会~

たとえば保守でもありリベラルでもあると言うと政治的な言説の中では許されないようなきらいがある。あるいは女性がタバコを吸っていると言うと怪訝な顔をされたりする。一般に欠点やギャップ、あるいはダブルスタンダードのようなものは受け入れられない。そこに物語が用意されているでもないかぎり。

インターネットでも現実でもかまわないが社会を見た時に僕達は他者視点(空気)でしか社会を語れないところにあらゆる問題の根があると考えている。

それは僕達個人が主体となって社会の側になる時にも同じことが言える。たとえば掲示板で社会的に是とされるスタンスによって書き込まれているものも当人は無意識のうちに社会性に飲み込まれて社会そのものになっていたりする。明らかな違和感があるのだ。悪ふざけや承認欲求によってブーストされたとしか思えないような「嘘」が混じっている。そうとしか見えないものがある。僕もはてなブックマークに書き込んでいた時にそこの空気によって言動が左右されたような経験を持つしそれは僕の嘘なわけだが他の場所でもそういった空気によって調整されているような感覚を持つことがある。あるいは自分の感性とコミュニティーの総意とが重ならない時には単に黙ることが多い。現実にもネット上でも。

インターネットが本音を書ける場所だと数年前までは言われていたがいまやインターネットこそ嘘を書かなければならない場所で現実のほうがはるかに本音を言えるところになっている。現実には言えないようなものを書けるのがインターネットのオリジナリティーだったけれどそれはもはや逆転していてネットこそが空気に支配されていて社会的な言動しか許されていない。

不倫はいけないや小さい炎上もなにもかも社会(嘘)というスタンスによって社会人的にそれが行われているふしがある。そんなに本気でみんなそんなこと考えているわけがないだろうといった根源的な違和感がぬぐい切れないのである。

 

それはシロクマさんの著書を読んでもそう思ったし他の社会評論を読んでもそう感じる時がある。西部邁さんの本を読んだ時にもそのような違和感は持ったし先崎彰容さんの「違和感の正体」を読んだ時にも感じた。社会は社会ではないのではないかという違和感が消えないのだ。シロクマさんも西部さんも先崎さんも読んだ時にその通りだと首肯するのだけれどそれは社会にたいする認知が似ているだけだという話でしかないのではないか、あるいはそういう「グループ」に自分が所属しているだけではないのかといった疑念が残り続けている。自分の違和感を高名な方も持っているのだという「許し」や「照合」によって自分の考えを正当化するけれど果たしてそうなのだろうか・・・

 

社会は社会としてしか現前しない以上、社会そのものをそのまま見た時にそれは社会ではないのではないか。そんな思いが常にあるのだ。全員が社会生活において社会的な圧力において嘘をつきつづけ、空気に順ずる限り社会を社会だと見た時に正しく社会を認識できなくなる危険性がある。つまり全員が嘘をついている状態において嘘にたいしてなにかを言うことになり、その意味で社会的な言説はから回るだけではないだろうか。宮台真司さんや東浩紀さんなどもたびたび日本人は劣化したや日本人はクズだといったことを言っているが、しかし同時に本当にそうなのかとも思う。実際、そんなにクズな人間は自分の周りにはほとんどいないからだ。つまり社会を社会として見るということはなにがしかの罠が潜んでいるのではないだろうか。

そんなことを切に感じるのである。

 

そのように考えると、どうにもこの社会には嘘の社会と純粋な社会とがあると考えるようになった。嘘で脚色される以前の社会を純粋な意味における社会とし、空気などによって支配された社会を嘘の社会と便宜的に呼ぶことにする。

そう腑分けした時に見えてくるのが嘘の社会と純粋な社会とにおけるダブルバインドである。みんな本当はある程度動物的な欲望を抱えながらも同時にそれなりの良心にもとづき生きている。にも関わらず社会にたいしては嘘を言うことが正しいとなっている。変にねじれているのだ。

 

そのようなダブルバインドはたとえばテレビ局が芸能人をスキャンダルで降板させるのとほとんど同じ論理でもって個人の心中をも浸食している。テレビ局もスポンサー企業の社員もちょっとした炎上程度で番組を降板させるのは正しくないと考えているのに謎の空気によって本心とは裏腹の嘘をついて謝罪し、嘘のためにキャスティングの変更を余儀なくされる。

それは資本主義における組織のものだと考えがちであるがそのようなダブルバインドは実のところ、僕たち個人のなかにもあるのではないだろうか?

空気に流され、コミュニティーの総意めいたものに準ずるような謎の空気はどこにでもあってそのたびに僕たちは自分の感性にたいして嘘をつきつづける。もちろんそのような心境には個人差があり、空気をまったく意に介さない人もいるし、慮る程度の人もいれば、完全に迎合してしまう人もいる。個人差はあれど、多くの人がそのコミュニティーの流れに沿うように発言し、それがいわゆる民主主義における正しいプロセスだというお墨付きまでもらう。しかしそれはほとんどが嘘であろう。個人の意見を集約するはずの民主主義なのに個人がいつのまにか民主主義そのものと同化してしまっているのだ。

 

そのように感じるのは個人の感想としか思われないかもしれない。もちろんその可能性のほうが高いであろう。しかし現実における印象と本やネットおよび統計で見る社会とには確信的なズレがあるのだ。

 

ネットなどの炎上原理や一部の声の大きい人がつく嘘によって社会が形成され嘘の社会に迎合するためにまた誰かが嘘をつき、その嘘を強化しつづけることになる。そしてその嘘を社会学者などが見た時にいまの社会はこうだと言う。けれど全員がほとんど無意味に、だが強制的に嘘をつきつづけている社会にたいしてどうしてそれが社会だと言えるのだろうか。

確信して言えることだが誰もかれも本当にそんなことを思っているわけではないからだ。ラディカルフェミニズムにしてもリベラルにしてもセクハラにしても文春砲にしても誰かが巨大な嘘を言い、その嘘に迎合するアーリーアダプターがいてそれが嘘がどうかすら関係なく面白がる人が嘘を拡散し、嘘をもとに社会を形成しつつある。そのような現象がここ数年、事を欠かない。

 

そして、このような言論の素地をつくったのはいわゆるダブルスタンダードの封殺ではないかと思っている。「ダブスタだ」「おまえが言うな」といった批判をツイッターなどでは良く見るけれど、そのような圧力をもってして嘘が許されない状況をつくることで逆説的に嘘しか言えない社会を生んでいるのではないか。

人は生きるうえで嘘をついてはいけないと子供の時に誰もが教わる。しかし嘘というにもグラデーションがあり、この領域ではこの行為は許せないだったりこの人のこの行動は許せないなど個人差としてある。もっと単純に時間が経過して過去の発言といま考えていることは違うこともある。

つまり言葉とはそれ自体が原理的に撞着する性質のものであってあの人はああ言ったからこれはこう考えているに違いないだとか、あの人はああ言ったからこの発言はダブルスタンダードだと簡単に言えたものではない。

しかし僕達は嘘はいけないと教えられ、ダブルスタンダードが許されない社会に生きている。そのため、自分の感性にもとづいた発言は未来において嘘となる可能性があり、ネット上にアーカイブとして残すのは危険である。

そうなった時に残される発言は空気に順じたものしかない。その結果として個々人の感性とは離れた嘘しか残らないことになって嘘の社会ができあがる。

つまり嘘やダブルスタンダードがいけないとなった時に人は目の前にある正しさ及び空気に順ずるしかなくなり、その結果として空気という嘘に支配され、嘘の社会ができあがるのだ。

 

このような悪循環をなおすにはダブルスタンダードは駄目だといった類の論法を解除するしかない。人は自分の感性に正直になって社会的に間違ったことを発信してもいい。それは嘘の社会的圧力によって炎上したりするが大丈夫。

 

だって誰も本気でそんなこと考えてないんだから