メロンダウト

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Everlasting Guilty 自民~暴走族は正しかった~

アニメのギルティクラウンが好きである。かなり酷評されているけれどあれを酷評している人はキャラクターに理想像を押し付けている馬鹿野郎である。ぷんぷん。

あれほどリアルに人間を描いているアニメはない。卑怯で、嘘をつき、自己保身に走る。人間なんて常にあんなものであろう(ネタバレ自重)

海賊王になろうとしたり、中華統一しようとしたり、鬼を殺したりするのはひらたく言って異常者のそれである。多くの作品はその異常性が面白いわけだが人間が人間をやっているのも十分に面白い。

 

ということでギルティクラウンの話・・・ではなく、永遠に続くかに見えるギルティー自民と菅政権誕生についての雑感を書いていきます。前回の続きのような内容です。

 

・安倍政権の記憶

安倍政権は史上最長を記録した政権になったわけだが結局は何も変わらなかったという思いが強い。何かを変えることがよくて変えないことが悪いと言うつもりもない。何も変えないことを評価しないわけではないが、なにを安倍政権の功績と考えていいのかがよくわからない。アベノミクスにしても名目賃金と実質賃金の乖離がまして格差が広がっただけで政策として成功したわけではなかった。株価が上がったと言っても最初の半年程度であがり、そのあとはレンジ相場になっていたわけで残り7年のアベノミクスは言葉だけはよく耳にする有名無実のものであった。結局は格差がひろがり、その格差も消費税増税によって固定された。企業のバランスシートが回復して雇用が促進されるというのも有名無実なものであった。企業は内部留保にまわすか新卒を採用するか非正規を増やすかのいずれかであり、貧窮者に利益がまわってくることは終ぞなかった。

アベノミクス実体経済に反映しているというテイをつくるために非正規雇用を増やし、失業率が改善したように見せているだけであった。

 

経済だけではなく行政の破壊も著しかった。

森友からはじまり、公文書改ざんに桜を見る会、甘利経済再生担当大臣の口利き辞任、河井法務大臣の辞任、加計の「総理のご意向」など

 

 

自民党を支える過剰適応社会

こうして政治批判をすること自体がもはや品行方正な日本人から見れば悪辣ともとらえられるかもしれないが、そういう似非道徳のようなもので過剰に適応する様式そのものがここまでの政治の失敗を生んできたのではないか。

 

結論から言ってしまえば暴走族は正しかったのだと思うようになった。ものすごい雑な言い方をすればみんな良い子になった。良い子は親に反抗しない。安倍政権とはただ単にそれだけのことでしかなかったのではないか。安倍総理が辞任した瞬間に支持率が上昇したことを見てもそれは明らかである。病人には優しくするという道徳により支持率があがる。それほどに馬鹿げているのだ。

健康で、道徳的で、清潔な秩序めいた政治という馬鹿馬鹿しい政治である。

 

みんな良い子になった。猪瀬直樹さんが日本はディズニーランドだと言われていたことを思い出す。夢の国の中にいてずっと幻想にとらわれている子供が日本国民だという意味で言われていた。西部邁さんのも日本人は文化的小児病だと言われていた。アメリカの属国、敗北主義の良い子ちゃん国家の日本なんてのは戦後ずっと言われてきたことだが今でも子供のままだということだろうか。親の思う通りに動き、反抗もしない子供。

 

暴走する若者もいないし街中に唾を吐く人もいない。歩きタバコをする人も、酔っ払って千鳥足で歩く人も、駅のホームで酩酊している人も少なくなった。ましてや犯罪率は減少し、みな規則正しく生きるようになった。

良い行動をこころがけ、他人に迷惑をかけないようにし、些細な法律すらもやぶることすらせず、ごみも路上に捨てずにと、言葉にすれば当たり前の行動であるが当たり前が高じて啓示みたいになっている。ぼく個人の感覚からすればゴミぐらい街中に捨ててもいいとすら思っている。法隆寺大阪城などの文化財のなかでもあるまいし何をそんなに神経質になって守っているのだろうかと思うことがある。

そういう現行の規則にたいして従順な考え方は批判的精神を損なうことになる。すべてを守り、すべてを肯定するぐらいであればすべてに反対したほうがはるかにマシである。

是々非々でいられればそれにこしたことはないが是々非々で考えられる人は多くない。多くの人は感情的に政治を判断しており、その感情が批判を許さないように教育されている以上は現状をそのまま肯定することになる。批判なき政治とはつまりどれだけ自民党がギルティであってもそれを永続的に支持することを意味している。

 

現状肯定がいきすぎている。菅新内閣の顔ぶれも安倍政権そのままであるがおそらくずっとこのままいくのだろう。そしてそれを支持する過剰適応の民がたくさんいる。そうやって何も変わらず何もしない政権を何も望まない国民が何となくそのまま支持するだけで永遠に続く。

このような現状に比べれば暴走族が存在した社会のほうがまだ変化の可能性があった点で希望がもてる。今の社会は固着している。清潔で健康的ゆえに反抗することもない。過剰に今に適応し、ルールに沿った行動しか許されない。だれもいない歩道をバイクで走るのも許されない。車が通るはずもない深夜の田舎の交差点ですら信号を守る。そうやってなにもかもを保守しなくてはならない。

そうやって適応し、すべてを守り、良い人間のまま生きていく理想的な人間を演じても現実にはみんなそれほど幸せではない。経済指標はアベノミクスにより回復したように見せているが社会指標においては子供ですら幸福度が低い。大人はいわずもがなであり、賃金格差だけでなく恋愛格差もひろがり性交渉をしないできない人間も増えている。

幸福度指数も年々順位が落ちている。2015年の時点ですら46位と低いが2019年には58位になっている。

結局もう現状を肯定している場合ではないのに現状を肯定しつづけ、自民党を支持しつづける日本はいったいなんなのであろうか。

もちろん政治をなんとかすれば回復するものでもないと思うが、しかし政治が変わらなければ国家をデザインすることは難しいだろう。国なんて無視して個人が社会に適応して幸せに生きるという選択をとる人のほうが多いだろうがそうやって過剰に適応しても幸せですらなく、ましてや何も変わることがなかったのだ。それが安倍政権から学ぶ最大のものだろう。

それでもまだこれだけギルティな自民党を支持し続けている。いわんや病人に優しい国民のほうが病人である。

 

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