メロンダウト

メロンについて考えるよ

個人でできるビジネスが転売ぐらいしかないんだろうな

昔はそこらへんに個人の小売店や街中華みたいなのがたくさんあったけどそれもいまや名のある商店街や観光地にしか残っていない。生活圏にある商店街はどこもシャッター街になっていてイオンモールとコンビニのドミナント出店によって潰されていった。

消費者として見ればまあそれもそうだよなとも思う。個人がやっている商店に雑然と置かれたものよりも綺麗な店内にあるプライベートブランドの安い商品のほうが良いに決まっているのだから。

しかし消費者として見れば当たり前の光景でも、供給者として見ればこれほど完璧で絶望的な状況もかつてないだろうとも思える。小売業を今から始めようと思えばどこの銀行も融資などしてくれないだろう。完全に寡占化していて事業を始める余地などない。

ブティックや洋品店なども見なくなった。飲食店もいいかげんな店はつぶれていって専門的な技術を要するもの以外は軒並み資本に淘汰されていった。喫茶店などもスターバックスコメダ珈琲にとって代わられていく。

 

専門的な技術も資本もない個人が個人のまま何かを始めようとするとどうすることもできない。それが資本によって均された今の社会であるがそうなった時に個人で始められるのがもう転売ぐらいしか残ってないんだろうな。

転売なら情報商材でも買ってツールなどを使い、自分ひとりで始められるけれどそれ以外に何も持たない個人がいったいどうしたらいいのだろうと思うことがある。たとえばなんの能力もない単に良い人であるだけのサラリーマンが失業したとして就労以外のことでお金を稼ぐとなるとかなりのどんづまりになる。

再就職もできず、開業する貯蓄も能力もなく、非正規の給料ではきびしいとなった時に昔なら小売業でもやっていただろう人が多少の倫理にもとるとしても転売屋になるのはわからないでもない。とはいえ目的は手段を正当化しないので転売が社会的にあくどい商売だということに変わりはないが、同情するぐらいの余白は持っておいてもかまわないだろう。自分も、誰もかれもがいつそんな状況になるのかわからないのだから。

 

資本主義において大企業にかなわないのは自明のものであってマルクスの時代から批判されてきたものではあるが、かといってこの国には貧困でいられるほどの精神的余裕はない。清貧なんていう言葉も昔はあったけれど貧乏であることはほとんど無価値なものになっていてみんな資本主義に取り込まれている。それは僕もそうだけどコンビニの無味無臭な店内のほうが雑多な個人商店よりもはいりやすかったり、地縁なんて無視して個人が生活しやすい環境になったほうが良いと思ったりする。しかしそうやって資本の便益に身を投じていると同時にそれに飲み込まれるような感覚になることがある。はたしてそれで良いのかと。消費者としては資本が拡大していって生活がどんどん便利になっていってそれで良いのだけど、僕たちは消費者であると同時に労働者である供給者でもあるわけで

逆の立場から見た時、消費者として個人の貧窮を救ってくれるコンビニが供給者としてはその貧窮を固定するものであったり、格差を拡大するものであったりする。時に僕たちはそれを忘れてしまいがちである。消費者として転売屋は迷惑だと言うけれどそうやってすべてのサービスを完璧に倫理的なものにしようとすれば雑多な個人が介入する余地はなくなるのではないだろうか。大企業には勝てない。商品の質にしてもサービスにしても価格にしても、そして遵法精神にしても。転売もおそらくなんらかの法律によって禁止されるだろう。しかしそうなったとしても転売をやっていた人間の貧窮がなくなるわけではない。その時にもっと別な形でもっと悪い方向に向かう可能性だってある。たとえば詐欺に加担したり貧困はその人の行為をすべて正当化してしまうから貧困は悪なのであって結果としての行為をいくら批判しても格差および貧困を解決しないかぎりこの手の問題はなくなりはしないだろう。

なので転売は単に倫理の問題ではないと個人的には思ったりしている。格差の問題であり、資本の問題であり、社会不安の問題であり、貧困の問題であり、そして当然ながら倫理の問題でもある。

PS5のような商品ならいざ知らず、ブックオフで必死にバーコードを読み取っているせどらーの利益なんてふつうに考えてよいとこ数千円でそれ自体が旧来の日本の経済観から見れば馬鹿げているものでその意味でも批判を向けられるべきような状況ではなく、むしろ救うべき対象とみなすのが妥当だろう。

 

そして彼らをつくっているのは大企業の寡占化による格差およびそれを支持する政権と、そしてそれらを良しとしている消費者および有権者にあるのは自明ではないだろうか。

 

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