メロンダウト

メロンについて考えるよ

男らしさという地獄を言語化したい由

ハルオサンが男らしさについて書いていてその通りだなとうなずくばかりだったのだけどなぜ男らしさはこれほどまで見過ごされてきたのだろう

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男は外圧によってそれを内面化して苦しむ生き物だと個人的には思っている。

さいころだったら頭が良いとか運動ができるかどうかで査定され大人になれば年収が高いや結婚しているか仕事ができるかどうかで量られる。そういう舞台設定があってその舞台でいかに振る舞うかが基準になっていてその外的評価を内面化することによって男は社会と同質化してしまう傾向がある。それは感覚としてとてもよくわかる。あまりにも普通に、かつ無意識に小さいころから植え付けられているから疑問を持つのが難しい。ハルオサンのようにそこで負けた人が負けた時に初めて気づくものになっている。呪いみたいなものだ。

 

その意味でほとんど運命的に適応を義務付けられている存在が男性社会における男性なのだけどそこにおいては自由がほとんどない。存在として不自由なのが男性だと言える。

「男性には自由がない。」と、こう書くと女性にはもっと自由がないと言われそうであるが男性の不自由と女性の不自由はその様相が違う。女性の場合には社会的地位が制限されていて社会の中での自由がないが、男性にとっては社会の中でしか自由がない。

社会の外にいったん出た経験がある男性はそれをよく知っている。いわゆるニート男性に価値はないという通念があってそれによって苦しんでいる男性がたくさんいる。また、主夫に向けられる視線も「男なのに働かないで」という差別的なニュアンスが含まれている。そういう通念的な侮蔑や危険視はそこかしこで見られるものである。男性にとって社会の外で生きるとはそれを許されるだけの環境にいるものだけであってそれ以外は再び社会の中にはいるか、もしくは無敵の人になるかしかない。

女性は主婦をやっていても大丈夫だし社会的に弱い存在だとしても男性に向けられるほどには不審者として見られない。女性は社会的な活動があらゆる場面において制限されているが、その不遇は逆説的に言えば女性は社会的に弱い存在のままでも許されることにもなる。女性が社会的に弱いのは社会のせいだと言えるけれど、男性の場合には社会的に弱い存在だということがすべて自分の能力の不足だという自己責任に帰依することになってしまう。

だから男性はどうあれ社会の中で存在価値を見つけるしかない。それが当たり前であってそれ以外に存在する方法がないのだから誰も理由を語ろうとはしない。だから男はそうするのが当たり前だというマッチョな結論になる。

そしてそれは正しいことでもある。男が男として存在するのに社会的活動をせずにいることは前提として許されていないのだから「そうする以外にない」のである。

 

 

そういう地獄が男性にはある。当たり前に適応できている男性にとっては寝耳に水みたいな話であるけれど適応の閾値も最近はずいぶんあがってきているのでそういうマッチョな男性社会もいずれ無理がくるような気がしている。働き方改革コンプライアンスなどで時間的にはマッチョな男性社会も良くなってきてはいるものの過度に適応を強制する圧力としてはむしろ逆に振れているような気がしないでもない。

マッチョな男性社会はダメだというのには激しく賛同したいのだけど男性にとって真に問題なのは社会の中での話ではないので社会の話をしても何も解決しないのではないだろうか。社会がどのように変化しようともそこに適応しうる人だけが生き残るだけでそれでは男性の問題は解決しない。その適応からも弾かれる男性がいるはずであってそのためには社会の外における自由が必要になってくる。つまり社会の中をいかに整えようとも男性にとってはその存在の問題を変えてくれるようなものではないのである。

 

できることなら働きたくない。金もそこまでいらない。社会という激流を泳ぐみたいな真似はしたくない。そういうふうに考えている男性はかなり多いと思う。とはいえ生活しなければいけない。だから何もできないまま生きていけないのは当然としても時々でいいからただただ存在することを許してほしい。できることなら愛する人でもいればいい。

吉良吉影は静かに暮らしたいのである。