メロンダウト

メロンについて考えるよ

タワーマンションとネットカフェ

ある地方都市に住んでるんだけど最近、駅前にどでかいタワーマンションがたった。駅前なので昔からの雑多な店がいりくんでる中に建てたもんだから何か奇妙な感覚を持つ場所と化している。もともと裏路地だった場所でタワーマンションの横には風俗店やキャバクラが並んでいてマンションの場違い感がすごい。それらの店の中に漫画喫茶があってそこはネットカフェ難民が住んでいる場所になっている。一度入ったことがあるけれど負のオーラがすごかった。壁は黄ばみ、独特のにおいが充満して伸び切った髪と黒ずんだ肌の男性がカップラーメンにお湯を入れており、ブースの前には年期のはいった靴が並んでいた。駅前にたつタワーマンション、そのすぐ下にはネカフェ難民格差社会ここに極まれりみたいな場所になっているわけだけどなんというかこれでいいのかとしばらく考えていた。結論としてはいいわけがないのだけれど。

 

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大阪都構想についてはほとんど報道を追っていないので具体的なことについては言及しないけれど、フロイドさんの言っていることはわからなくはないんですよね。政治はデュープロセスを踏んで民意を反映すべきだという美談が支配的だけどそうも言っていられなくなるのではないだろうか。いつか限界はおそらく来る。その時に橋本徹なり小池百合子なりがあの時ベターな選択肢だったのかもしれないと考える日がくるかもしれない。駅前のあのタワーマンションの前にたつとそう考えざるを得ないのである。

赤木智弘は「31歳フリーター。希望は、戦争。」という論説でこんなことを言っている。

国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。

 タワーマンションに住んでいる人々がGotoトラベルなどで自民党から恩恵を受けていて保守政党である自民党を支持しているわけだけど、格差がひろがって社会不安が増大すればネカフェ難民による暴動が起きてもおかしくはない。暴動を起こすだけの動機が彼らにはあるのだから。その時になんて正しくないやつらだとネットでは冷笑されるのだろうけれど正しいとか正しくないとか言えるのはそう言えるだけの環境にある人々だけで正しさで物事をはかれないような時代がきてもおかしくないと思ってる。このままいけば。

OECD先進国のGDPにおいても下にはメキシコがあるだけでもはやお世辞にも相対的に豊かな国とは言えないわけだけど、それでもここまで自民党を支持し続けているのはもはや誰も何も問題だと思っていないか、もしくはタワーマンションの横にネカフェ難民が住んでいようとも意に介さないほど薄情な国民ばかりにすでになっているのかもしれない。

 

日本は衰退した。それはもはや事実なのだけど格差が広がったことで上流階級はそのままの生活水準のまま生活していてさらに無意識に他者をゾーニングして視界に入れないことによって「日本が衰退した」といった事実を幻想化することに成功している。実際、自民党を支持しているのは経団連や大企業などの富裕層と親の庇護下にいて社会を知らない若者及び老後を保守するしかない高齢層となっている。事実を事実としてみなくてもよい階級だけが自民党を支持しているのだけど彼らが住んでいるすぐ横にはネットカフェ難民が確かに住んでいるのである。

 

橋本徹小池百合子を僕はまったく支持しないが、彼らのようなポピュリストが社会にとって必要だというフロイドさんの言うことはとてもよくわかる。それは戦争になる前に疑似戦争状態とでも言うべき状態をつくり、今の日本を支配している幻想を壊さなければもはやこのまま下降していくだけだからである。

本当の戦争になる前によりベターな戦争を始める。そう考えるのも無理はない。誰も事実を見ていないか、もしくは事実を見ていても幻想に逃げ込むか、冷笑するか、あきらめるかとなっているのだから。

赤木さんの言う通り、弱者にとって戦争は一概に悲惨なものとは言えずむしろ全員が平等になるチャンスだということは間違いない。

その点においてポピュリストはその戦争状態をつくるのに適している。ポピュリストの言う政策は弱者にも理解できるので弱者が政治参加する場所となりやすい。保守は既得権に迎合し、リベラル知識人が小難しい美談ばかり並べる政局においてポピュリストがなぜ悪い選択肢だと言えるのだろうか。むしろベターな選択だと考えてもおかしくはない。

すくなくとも弱者にとって保守もリベラルも希望とは言えないのはここ10年程度の政治を見れば明らかである。ならば希望は戦争と言うことが妥当だと言えなくもない。

それがいかに政治的に愚かなことに見えようともである。