メロンダウト

メロンについて考えるよ

啓蒙するなら金をくれ~トラウデン直美さん炎上から考える~

環境保全自体には賛成なのだけど・・・

www.huffingtonpost.jp

 

結局こういうのって属人性なんですよね。ナショナルジオグラフィックとか好きでたまに見てるんですけど、アフリカの国立公園を運営している人が動物の環境について語っていたりしててそれを見た時には環境は大事にしなきゃなと素直に思ったりする。あるいは地球誕生やらなんやらのドキュメンタリーを見ていてもそう思う。

しかし先進国の、それもエスタブリッシュ層のモデルさんが言っているのを見てもなんとも思わないんですよね。石油を加工してできる化学繊維からつくられた服は環境保全には反してるし、ましてやそれをたくさん売るためのモデル業は環境保全とはむしろ逆の行為となる。モデルという職業を否定しているわけではなく言っていることとやっている事が逆で説得力に欠けるというか、なんというか「いつもの啓蒙」に見えてきて興が醒めてしまう。ああ、いつものアレかと・・・

 

ちょっと前にフェミニストが性犯罪者だったことが話題になってたけど、優しい言葉ばかり使う男がDV野郎だったりと、そういう事例は枚挙にいとまがないわけでその軽薄さに無自覚でいられるのはなんなのだろうか。ものすごく正しいことを言っているけれどその正しさを現実と切り離しているような、そんな印象を強く受けてしまう。それはいわゆるネトフェミや文化左翼ネトウヨと呼ばれる人達にも感じることだけどふつうはそんな正しいことばかり言ってられないだろと。まずそう思ってしまう。

 

言葉の通りに生きろなんて言うつもりはないし誰しもが矛盾を抱えてるのは当然だけど、現実が正しさとは相いれないで矛盾していたとしても現実と正しさを切り離してはいけないと思うんですよ。矛盾するのは否定すべきではないけど、その矛盾を別々に切り離した瞬間にその言説は一切の説得力を失ってしまう。

現実と正しさが矛盾していたとしても現実は正しくあろうとすべきだし正しさも現実であろうとすべきで、だから正しさだけをバーンって喧伝したりするのは間違っているように思う。正しさは現実的に語られてこそ正しさたりえるし、現実も正しさを受け入れられる状態があってこそ正しい現実として機能する。そうやって現実と正しさは架橋するのであって正しさだけ言われてもそんなこと知るかとなるのは当然すぎる反応ではないだろうか。相応の現実のうえにしか正しさは構築しえないのだから。

 

なにが言いたいかというとつまるところ金の問題なんですよね。現実に正しさを受け入れるには生活的余裕が必要で、その余裕がどこからくるかといえば金(とそれによって生まれる時間や自己投資)に尽きる。

西海岸のリベラルやトラウデンさんのようなエスタブリッシュがリベラル的なコレクトネスを散々言っているけれど、そういう人々は現実が充足して正しさを構築できるだけの余裕があるからそういうことが言えるのであってそうじゃない人々にとってまず考えるべきは現実の問題となってしまう。西海岸やリベラルではなくとも先進国と発展途上国の関係においてもそうでしょう。ゴミを焼却できるだけの施設がないのにプラスチックごみを捨てるなと言うのは順序が間違っている。意識や啓蒙で世界が変わるほど、そんなにみんな豊かではない。まず現実という戦慄が先にあってそれをどうにかしない限り正しさは機能しない。腹が減ったら人は食い物を盗むという当たり前の話をまずしたい。ご飯をお腹いっぱい食べてから議論しようじゃないか。

そう考えるに、奴隷に働かせて貴族が社会の在り方を談義していた古代ローマのころから何も変わっていなく、まず変えるべきは正しさを受容しうるだけの現実であってその後に何が正しいかを議論するべきだけれど

環境問題に関しては逼迫しているみたいなのでそんな時間はないのかもしれない。なので環境問題は緊急的にエスタブリッシュの意に従ったほうが良さそうな気もしている。自分もここでは批判的に書いているが環境保全には賛成なのでどんどん啓蒙してくれと思っていたりもする

しかしもっと広義な議論の在り方で言えば多くの啓蒙は現実を無視する場合がものすごく多い。なので一般的な議論においてはたびたびこう思う。

啓蒙するなら金を配れ、と。