メロンダウト

メロンについて考えるよ

被害者になりたいマゾヒズムを持って自民党は支持される

 

 

 

なぜ自民党を支持しているか問題についてだけど、欺瞞というと違和感を持ってしまう。そもそも政治が政治として考えられてないのだと思うんですよね。政治を政治としてとらえることができないから「経済」を持ってきてなんとなく政治っぽい返答にしているだけで、国民の多くが政治について「関心がない」のでしょう。関心がないからそれっぽり理由(経済等)を言うけれどつっこまれると返答できなくて欺瞞のように見える。欺瞞が問題なのではなくて問題は「関心がないこと」にあってそこにすべて集約されるような気がしている。関心がないから支持政党はどこでもよい。そして関心を持つしかないような状態(治安が悪化する等)になるかもしれない野党には入れないでおこうと、そういうものすごくベタな投票をしている人が大半なのででしょう。

このツイートを見ていて支持政党ごとの政治思想を三浦瑠麗さんが調べていたなと思いだしたので貼っておきます

『日本人価値観調査2019』

https://yamaneko.co.jp/web/wp-content/uploads/e561d6435c82302b9ccc475bb42eb36f.pdf

ものすごくざっくり言えば支持政党が違ってもそこまで思想的な違いはないことが書かれている。自民党のコア支持層は国民の8%程度でその他は無党派層自民党を消極的に支持しているのが現状となっている。立憲民主党にしても共産党にしても保守やリベラル、あるいは右と左といった旧来のイデオロギーで説明できるような状態ではなくなっている。むしろ自民党を支持しながら思想的には穏健なリベラルといった人たちが大半で立憲支持層とそこまで大きな違いがないと書かれている。自民党立憲民主党支持層で最も大きな違いとなっているのが外交や安保、そして憲法となっている。いわゆるネットで見られる自民党を支持するネトサポとそれを批判するリベラルといった図式は実際の政治にはまったく反映されていないことがわかる。

唯一思想的な違いが認められるのがれいわ新選組エスタブリッシュへの反発や資本の分配といった思想的な側面が見て取れる。

コロナによってまたすこし状況は変わったと思われるが、つまるところ「どこでもいい」人たちが大半であってなんとなく自民党を支持している人が最大多数となる。今さら書くようなことでもない気もするが、日本では無党派層が政治を左右している。リベラルも保守も、いわゆる政治思想のような国のあり方を考えるような理念に国民はもはや関心がないのである。

至極「まとも」に人々は政治を政治としてとらえなくなっている。経済の調整弁ぐらいにしかとらえていなくて社会政策や税金等の政策に関しては世論に迎合している。それは自民党を支持する層も立憲民主を支持する層も変わらない。

 

メタに考えるに、無党派層はこう考えていると推測できる。

「システムやプラットフォーム、法律や世論がベースにあり、個人はそのシステムの中でどう振る舞うかを考えるものである。」

しかし本来、政治はそのシステムや法律をいかにベターなものとするか、どのような社会が好ましいか考えるものである。そういった思考をみんな持ちえなくなっている。法律に異議を唱えるのは悪いことといった規範意識やポリコレで全てを判断している(あるいはしなくなっている)。もっともベタなものでは「ゴミを捨てるな」が代表的だけれど

僕たちはゴミを捨てる人のことを悪人だとして叩くことには躍起になるが、ゴミを捨てるしかないような社会のことにはまるで関心がないのである。オウム真理教による地下鉄サリン事件以降、街中からゴミ箱が撤去された。ゴミを捨てる場所がないのでゴミを路上に捨てる人が出てくる。このような状態でも「ゴミを路上に捨てなくても良い社会を構想しよう」とはならない。ゴミを捨てる悪人がいてその悪人をバッシングして社会から排除すれば社会は良くなるという排外主義的規範意識によってしかこの社会は変わってこなかったのである。法律によって人を動機付けたりシステムやアーキテクチャ(空間設計)を変えてゴミを捨てなくなるようにするなど。社会のほうを変えることによって人を変えるという政治的営みはもうずいぶん前からなくなっている。

ネット社会での炎上がそれだと思うかもしれないが、それはまったく違う。ネットによって変わったのは人が規範意識を全体化して規範にそぐわない人を排除するという建付けになっている。本来的な意味での政治はそうではない。悪人が悪行をする前に悪行をしなくても良い社会を「構想」するのが本来の政治であろう。

ゴミの問題からもわかるようになにからなにまでシステムや規範が先にあってそれにいかに迎合し、そのシステムのなかでいかに振る舞うか、いかに正しくあろうとするかにずっと躍起になっている。それは国民も、そして政権与党も変わらない。だから日本国民はからっぽだと、三島由紀夫のころから言われている。それは今でも変わっていない。無党派層といわれるような国民はシステムの奴隷なのでシステムを構想しうる「政治」にはことさら興味がないのである。だから自民党支持でリベラルというねじれた状況が生まれる。

 

以上のような状態なのでいわゆる政治を日常の場に持ち込もうとするとめんどくさい人間に見られるふしがある。通例的に日本では政治の話をすることがそんなに気軽には行われない。政治を語る(法律やシステム、政権の善悪などについて議論する)ということがそもそも無党派層には毒となってしまうからが大きな理由だと考えている。

そもそも論をこのブログではよくするけれどそもそも論を言ってちゃぶ台をひっくり返すのはご法度になっているのだ。それは政治の議論においても変わらないがもっと広義にも言えてなぜ生きるのかとか、なぜ一夫一妻なのかとか、なぜ物を盗んではいけないのかとか、なぜ女性の社会進出をすすめるのかとかひっくり返して理念的な意味を問おうとすると必ず感情的な反発がかえってくる。

みんな駄目なものは駄目だと幼児のころからおそわるのでなぜ駄目なのかを考える必要がない。なので何が駄目か考えて決定するような政治的思考を要求される場面がない。なので国民はからっぽだと批判されてきた。いかにからっぽか、いかに「可愛い」か、いかに被害者か、いかに奴隷かという主張をみなしている。からっぽ競争に社会がさらされている限りはシステムを構想しうる政治が民主主義のプロセスによって出てくることはないだろう。

おそらくは三島由紀夫が生きていた時代よりもはるかに僕たちはからっぽになっている。ほとんど何も考えていない。政治がどうしようがそのシステムのなかでふるまうことをはじめに考える人ばかりである。そういう思考は奴隷そのものであって

冒頭のツイートに戻れば

「自分は自民を支持してるわけじゃない」とエクスキューズしながらもどんな条件であれ決して自民以外を支持することがない

エクスキューズしないでなにか言うと加害性を持ちかねないからね。奴隷という被害者ポジションを維持できなくなるのでエクスキューズは奴隷にとってとても大切な枕詞になる。

奴隷になりたい国民と奴隷に支持される自民党

それが今日まで続く自民党と国民の「主従関係」の正体だと思っている。