メロンダウト

メロンについて考えるよ

理性至上主義と化した恋愛市場ではかわいいとすら言ってはいけないのである()

なんだろうな

note.com

現実的な話としては同意するのだけど、どこか違和感がある。

ようするにこれって女性の気持ちを理解しましょう系の話で、非モテ論争なんかでさんざん言われてきたものに近い。

「女性にかわいいと言わない」は恋愛工学でも似たような手法があったのを覚えてる。うろ覚えだけど以下

 

合コンなどで女性2人と食事している時にターゲットの女性とは話さないで自らは別の女性と楽しそうに話す。ターゲットから話しかけられてもそっけなく対応し、食事が終わったあとにターゲットにアプローチする。(なにか具体的なセリフかなにかあったけど忘れた)

 

これが効果的らしい。実践したことはないから知らんけど。

あと恋愛工学では褒めるよりも効果的な罵倒を使うことが推奨されてる。普段言われていないだろうことを冗談めかしてあえて言うことは効果があるらしい。恋愛工学におけるこれらの戦略と上記noteのかわいいと言わないことは戦略的に類似している。というかほとんど同じである。

恋愛工学で書かれていることも一言で言えば「女性にかわいいと言わない」であり、そこに集約されている。

しかし恋愛工学は批判されて、女性の気持ちに寄り添うかのように書かれた文章は称賛される。おそらくこれが上記記事を読んだ時の違和感なのだと思う。

ようするに直接的で打算的な「工学」として提示されたものは駄目で、女性側に立った「理性」は良しとされる。

恋愛工学のような人工的なモテ戦略は女性の気持ちを利用しているだけだという批判ももちろんある。それはそれで批判としては正しいとも思う。

いっぽうで上記noteの筆者のようなナチュラルボーンモテ男性の自然的な振る舞いは女性にたいする「真実の理解」なので批判されない。

しかしやっていることは同じである。動機や心情の違いはあれど、恋愛工学も上記noteもチンポ騎士団としてしか恋愛にコミットしてはならないという現実を説明しているに過ぎない。ゆえに賛同できない。もちろん実際のコミュニケーションとして上記noteが正しいことは同意するけれど、それを恋愛やコミュニケーション一般の話として拡大するのは「選民的」なので同意しかねる。

恋愛工学と上記のnoteは戦略によるものか適応か経験かの違いはあれど現実的にやっていることはたいして変わらない。男性は自らの性欲を隠蔽することによってチンポ騎士団になるしか戦略として残っていない。そういう現代の恋愛事情を如実に表している。男性はとにもかくにも理性をアッピールしなければならない。そういう状況にうんざりしている男性は多いだろう。

なぜそこまで女性にたいして適応しなければならないのか。女性の尊厳はわかった。痴漢しないこと、「おかしてえ」と言わないこと、胸おっきいと言わないこと、それはわかった。それは駄目だろう。自分は言ったことないがとりあえずわかった。しかし男性の尊厳はどこへ行ったのだろうか。男性は腕力が強いから尊厳をわざわざ尊重しなくても良い存在なのだろうか。

つまるところこの手の話は女性にしか主体を認めていないんですよね。徹頭徹尾男性が女性にたいしていかにコミットし、信頼を勝ち取るかの話しかしてない。信頼を勝ち取ったすえにセックスという果実が実りますとかほんとうんざりする話でしかないわけで。

男性が恋愛において持ち出すのは性欲のみなのは恋愛工学も上記記事も変わらない。男性が主体的に好意をアピール(非モテコミット)すると女性に気持ち悪がられるので客体をやりましょうと、恋愛の話を見てるとずっとそういう話しかしてない。それは非モテ論争のころから変わってない。恋愛において主体は常に女性にあり、男性はそれにいかに適応するかのゲームをやらされてる。つまるところ男性の好意や性欲は尊厳としてカウントされていない。こういった事情が生まれた原因を考えるに痴漢やおかしてえと言う男性の素行にも原因がある。しかしながらそれが行き過ぎて男性性を抹消し、女性にコミットするのが恋愛だと言う言説には反対したい。具体的問題を理念にまで拡大してはならない。痴漢もセクハラもダメだ。しかしかわいいと言うことは問題ない。それが僕の立場である。

男性性を抹消し、女性性に全振りした恋愛論は現実の戦略としては効果があるけれど、それがすなわち社会的に正しい言論とは限らない。女性が男性に好意を寄せる自由があるのと同様に男性にも女性に好意を寄せる自由はある。男性の場合、それを振りまきすぎという問題はあるにせよ、好意の表明までをも否定するべきではない。

女性にはかわいいと言ってもいい。女性が好む好まないにかかわらずである。戦略的に正しいかどうかは知らない。おそらくないのだろう。ただ、男性にとっても女性にとっても好意を寄せることが権利であることは知っている。それだけである。

西尾維新物語シリーズ神原駿河が「人と人は合わないことはあっても会わないことはない」と言っていたけれど、本来は女性もその男性が合わなければ断ればいいだけである。単にそれだけの話でしかない。「おかしてえ」と言う同級生や痴漢のような悪辣な例を持ち出し、かわいいと言うことまで否定するのは行き過ぎだろう。すごい簡単に言えば論理の飛躍でしかない。よくよく読むとネトウヨみたいなことを言っていることに気づく。

ありていに言えば手段の愚かさを行為の愚かさと紐づけすぎなんですよ。恋愛においても言っていいことと悪いことがある、やっていいことと悪いことがある。グラデーションがある。相手を人間として尊重して礼を逸するのはいけない。そういう当たり前の話をしたいのだけど、女性が置かれている立場を見るに、そんな当たり前の行動や言動もできない男性が一定数いるみたいで、なんとも難しくはある。しかし男性にもデュープロセスを踏んでいる限りにおいて好意を寄せて恋愛する自由はある。

そのデュープロセスの範囲を逸脱しない限りにおいては自由に恋愛するべきだというのが社会的に正しいと僕は思っている。

 

ところで、このnoteのうまい(ずるい)ところは中学の同級生の発言「おかしてえ」や痴漢行為、tiktokのコメントなどを引き合いに出すことで自らを逆説している点にある。

例として出されているものは誰がどう見てもダメなわけだが、男性の性的衝動を省みることによって自らを理性の側の人間であると確認し、主張している。筆者の理性はわかった。そして理性が勝利するのもわかった。しかし理性だけが大切なのではない。というかそういう理性至上主義みたいな恋愛市場にしたからおかしなことになっているのではないだろうか。

男性側から見た時に理性をアッピールしている自己肯定感が高い男性が一番ヤバいと思う。理性のいきつく先は狂気なのは歴史が証明しているわけで、理性を恋愛に使用する男性に女性がひきつけられるのは狂気に惹かれているだけに見えてしまう。性欲を正直に発露する男性のほうがまだいい。

ましてや自己肯定感ほど恋愛において無価値なものはない。

くしくもシン・エヴァンゲリオンが「男性の自己肯定感は恋人がいて結婚すれば勝手に高まるもの」という物語であると一部界隈で言われているように

「君が付き合えば男性は変わる」ということを女性はもっと知ったほうがいいと思う。

こういう事を書くと弱者男性論みたいに読まれるかもしれないけど

女性はモテ男性の理性や暴力性に巻き込まれる前に、男性はある意味で弱い存在だと知ったほうがいい。女性が自衛する意味においてもそれは重要だと思っている。

しかし女性は自己肯定感が高く理性的な男性を選ぶ。それがモテ非モテの恋愛格差を生む。女性は理性至上主義で男性間の格差を広げたゆえに浮気されるし男性はモテと非モテに分けられる。結局、この理性とやらは結果的に誰を幸せにしたのか甚だ疑問なのである。