メロンダウト

メロンについて考えるよ

日常というまやかし、ビジョンの不在、現場主義、忘却政権、非戦主義

新型コロナウィルス第4波がきているけれど、一年前からほとんど何も変わっていないのは驚くべきことではないだろうか。医療やPCR検査体制を拡充すべきだというのはずいぶん前から言われていた。クラスター追跡をするのではなく、全数検査に踏み切るべきだというのは第2波が収束したころから言われていたことだが、それも行われていない。民間で検査できるようにはなったものの、行政としてはクラスター追跡と濃厚接触者の検査が主なものとなっている。いまだに医療提供体制及びPCR検査の体制が改善されたとは言い難い状況である。そんな中、大阪では重傷者用のベッドが満床になり、いよいよ医療崩壊という局面を迎えている。これから爆発的に死者数が増えてもなんら不思議ではない。

 

それにしても今のような状態になったのはなぜなのかすこし考えるべきであろう。医療リソースや保健所の人員不足といった、ある意味で現場主義的な意見で思考を止めてはいけないと思っている。このような状況になったのはもっと根深い問題があるのではないだろうか。そう思えてならない。それをすこし考えてみたい。

 

はじめに

「日本ではビジョンを持つことができない」という記事を以前書いたことがあるので紹介したい

plagmaticjam.hatenablog.com

この手の民進党にビジョンがないといった批判を見て常に感じることは党を支持し票を投じる国民のほうにビジョンはあるのかということです。いうまでもなく民主主義は代議制であり民進党は国民を代表しているだけです。

 

たとえば経済大国としての覇権を取り戻すため財政出動法人税を下げ中国やインドなどの勢いがある国に負けない経済力を日本も取り戻そう。といった話は経団連など一部の団体や個人が言っていますが多くの国民は経済問題とは貧困問題のほうを向いていて国家戦力的な経済政策のようなものにはまるで関心を示していないように見えます。ましてや日本をより良い国にするために頑張って働こうなどと言う人は皆無だと言える

 日本国民にはビジョンがなく、その代議士である政治家達もビジョンを提示することができなくなったと書いた。

さらに以下の記事では、現政権は忘却に依存しているとも書いた。

plagmaticjam.hatenablog.com

国難ともいえる緊急事態中に臨時国会を開かずに記者会見もほとんどしないでいつも通り座して国民が飽きるのを待っていただけなのが最大の悪政

 

結論から言えば、政府が「日常」に逃げ込んでいるのが現在の状況だと考えている。

安倍政権の時からそれは変わらない。何か問題が起きた時には答弁をごまかし続け、メディアや国民が「飽きて忘れるのを待つ」。それが自民党の一貫したスタイルであった。記者会見においても、フリーのジャーナリストなどには質問を許さず、記者クラブ所属の記者にだけ質問させ、それにたいして官僚が用意した答弁を読む。政治はそういったお座敷芸を披露し、一応の体裁を保っているように見せつつ、とにかく国民が忘れるのを待つ。そういった「日常性」に政治は逃避しつづけてきた。それがここ10年余りの自民党の内実であろう。そうこうしてるうちに新型コロナウィルスの感染が広がった。コロナに対してもその手法は変わっていない。国民やメディアがコロナに飽きるのを待つという驚くべき無能さを発揮している。とにかく日常を継続しつづける事が大事だという保守的な政策ばかりである。検査体制の拡充などコロナと闘うような政策はほとんど行ってこなかった。当然ながら、日常を続けることはとても大切なことである。しかし、それと並行して政治が戦時下における体制を確保しておくのは相反するものではない。それをほとんど行ってこなかったと、もはや断じてよいと僕は思っている。すべてを日常として回収しようとしている。政府も、そして国民もである。

こういった問題は、元の元をたどれば、戦後焼け野原になった国に日常を取り戻そうといった歴史に由来するものだと思っているが、その意味で僕たちは敗戦の記憶をいまだにひきづっているのかもしれない。日本では平和のもとの「日常」を天下国家の在り方として掲げてきた。平和主義を信奉している国民が数多くいる。僕もそのうちの一人だという自覚はある。しかしながら、日常が過剰に浸透した結果、平和主義が高じて非戦主義となり、ついには戦うべき時にも戦えなくなったのが今般のコロナ禍にも表れているのではないだろうか。そう思えてならないのだ。その意味で、自民党はそれを象徴しているに過ぎないという見方もできる。

思想的にはそういった枠組みでとらえることができる。とはいえ、私達の平和思想とはまったく無関係にコロナは広まっていく。非戦主義も考えようによっては美徳であるけれど、コロナウィルスにたいしては意味をなさない。戦う体制を確保しない限り、ただただ広まっていくだけとなっている。

もちろんこのような書き方をすると、「国民は自粛などをして戦っているではないか」といった批判がきそうである。もちろん戦っている。しかしそれは防御に徹したものになっている。本来、国民が自粛などをして戦っている間に、政府は補給線を確保したり戦略を練ったりする必要があったけれど、ほとんどなにもしてこなかった。ようするに政府が戦わない以上、国民がどれだけ戦っても無意味だということを繰り返してきたのがここ一年の実情だと言えるだろう。

たとえばPCR検査の体制を拡充すれば、陰性者だけで経済を回すといったことも(完全なものではないにせよ)不可能ではなかったはずである。あるいは医療提供体制を整備すれば一律の自粛ではなく、やむを得ず深夜営業する店などに許可証を発行するなどもできたはずである。

しかし僕たちはいまだに統制が取れないまま「一律に無策の自粛」をさせられている。僕たちがこのような状態にあるのは、政府がその戦略を組んでこなかったからだと言わざるを得ないだろう。そしてその政府の無策と連動するものが上記記事にも書いた「ビジョンの不在」だと言える。ビジョンがないので戦略が組めず、平和や日常といった幻想に逃げ込んでいる。

 

コロナが流行しはじめた去年3月に、孫正義さんが100万人にPCR検査をするとツイートしたことがあった。

 当時、このツイートにたいして「患者が殺到し、医療現場で感染が拡大する恐れがあるからやめてくれ」という批判がほとんどだった。振り返るに、この騒動はとても象徴的なものだったように思い返すことができる。

 

コロナにたいしていかに戦うかというビジョンを示した孫正義さんであるが、現場の意見によって封じられてしまった。現場や当事者の意見を重く見すぎて、ビジョンを掲げること自体が難しくなってしまったのが今の日本なのであろう。

現場の意見はとても大事なものであるけれど、それとはまったく別に、我々はどこに向かって進んでいくのかというビジョンを持つことも大事である。孫正義さんのツイートは当時からすれば絵空事に写ったかもしれないが、実現不可能なビジョンでもそれを提示することには意味がある。どこに向かって戦うのかわかれば、目的意識がはっきりとし、皆の中に共通する認識が生まれる。そこではじめて、「いかにして戦うか」といった戦略を話しあうことができる。

もちろんそのビジョンが実現可能かどうかといった批判はされるべきであるけれど、現場の声を聞き過ぎた結果、いかなるビジョンもたてられなくなっているのが現在の自民党及び政府全体なのではないだろうか。現場や当事者の意見だけを吸い上げると、保守的な対策しか打てなくなってしまう。それは現在の状況を見れば明白である。オリンピックもやる、コロナ対策もやる、日常も日常として続けるという「保守的な決定不能」に陥ってしまったのは、政府がいかなるビジョンも持っていないからであろう。

こういった停滞から抜け出すためにもビジョンは必要だと言える。誤解を恐れずに言えば、そのビジョンが実現可能かどうかは二の次でしかない。そのビジョンが正しい方向に人々を向かわせるのかどうか。それがビジョンが果たす役割なのだから。

ビジョンに基づく「決定」を下すのが政府の役割であるけれど、ビジョンもなければ決定する能力もない。ゆえに後手後手の政策しか打てないでいる。そうして何もかもが日常として回収されてしまうのである。

 

こういった現場主義によるビジョンの封殺は至るところで見られる。最低賃金を上げれば中小企業が潰れるなどもそうである。消費税法人税、移民政策など至るところで岩盤規制とも呼ばれる「日常」が立ちはだかっている。あるいは、一部のハラスメント問題なども被害者が正しいという当事者性、現場主義によって議論ができなくなっている側面も否定できない。

とにもかくにも現場の声を聞きすぎた結果、現場を回すことがすべてとなり、ビジョンを示すことができず、戦略が組めなくなっている。それがすべてを固着させてしまっている。そのような状態で、原理的に現場の声を無視せざるを得ないビジョンを政党が掲げられるわけがないのである。

我々はいつしか国の在り方を考えることをやめた。この終わりなき日常が漫然と続いていく。危機が来たらそれをほとんど無視してやり過ごす敗戦作法は政府の嗜癖にまでなってしまっている。

日常によって危機はまやかされ、政権はそれに依存し、国民が忘却するのを座して待つ非戦主義という空気が支配している限り、ビジョンを掲げ戦うことは不可能となっている。

そのような現実において我々にできることはただただ頭上にコロナという爆弾が降ってこないことを祈るだけである。

ちょうど、1945年あの日の東京のように。