メロンダウト

メロンについて考えるよ

ロックンロールの消滅、主体の消滅、適応の始まり

「ロックは反権力の象徴であったけれど、それは大きな物語の対立軸として存在していた」といった旨のツイートを見た。定説としては正しいと思うけれど、ロックは反権力のものではないと思っている。確かに反権力といった側面もロックにはあるけれど、それはロックの本質ではない。そんなことを書きたくなった。

 

ロックを思想的に分類するのであればそれはもちろん保守でもないし、あるいはリベラルでもない。ロックは政治的な意味での自由とは別の自由に基づいたものだった。リベラルとしての自由ではなくフリーダムとしての(と言うといささか語弊があるかもしれないが)自由がロックなのだろう。その自由が「時に政治的に響く」のであって、本来のロックは政治的な意味での自由とは異なる。リベラルの言う解放としての自由とは異なり、個人を政治や社会の外に連れ出してくれる自由がロックだった。その意味でロックは反権力のものではなくむしろ「非権力的」なものだと言える。「権力とかなんとか知らんが勝手にやってろ」と言うのがロックのそれであることは片足でもロックにつっこんだことがある人にはピンと来るはずであり、そのようなスタンスは非権力と呼んだほうが適当だと考えられる。

ロックは権力や政治などとは別領域のもので、学問的な分類としては文学に近い。文学がそうであるように、政治的なものからむしろ人を自由にすることで、それが逆説的に政治性を帯びるという構造として捉えたほうがより正確だと考えられる。ロックが大きな物語の対立軸として存在していたというのは誤りで、ロックは常に個人を自由にするために「そこで響いているだけ」なのだ。仮にロックが政治的に聴こえたとしても、その多くは結果的なものとして捉えたほうが良いであろう。ロックの本質は決して政治ではない。たとえそれが結果的に政治性を帯びようとも、である。

 

 とはいえ。明らかに政治や社会を意識して歌われたものもある。Radioheadの『Fake Plastic tree』、ジョンレノンの『imagine』、ピストルズの『God save the queen』など社会や政治を念頭に歌われた曲も数多くある。最近だと『うっせぇわ』などもそうかもしれない。ロックではなくとも欅坂の『サイレントマジョリティー』などもそのひとつとして数えられる。しかし、そのどれもが意図して歌われたものであることは留意すべきであろう。社会への風刺を歌ったものだけをロックだとして限定的に捉えることは、端的に言えばもったいないのだ。本来のロックンロールは社会の外、政治の外、法の外にあるものだ。それをむりやり政治的に位置づけるとするなら大きな物語とやらの対立軸となるだけであろう。すごく簡単に言えば、偶然そうなっただけとも言える。そのような対立軸上のロックであれば、ロックは死んだと言える。

 

このような話は文学は死んだ問題にも近いけれど、その理由を一言で言えば、まさに大きな物語が拡張しすぎた結果、個人の自由が失われたことにある。「自由という全体の規範」が行き渡り、それが支配的になると、社会の外側にあったロックや文学までも自由という規範が侵食することになった。そしてロックは死んだ。それが正確な認識だと思っている。大きな物語がなくなったからロックが対立軸として機能しなくなったのではない。むしろ逆である。自由という「大きすぎる物語」が、皮肉にも個人が自由でいることを許さなくなったのだ。ロックが死んだとするのであれば、それは社会の外側の自由(フリーダム)を許さなくなった政治的自由(リベラル)に原因を求めることができる。リベラルは政治思想であるため、一定の規範や道徳を自由と紐づけて考えている。自由には責任が伴う。それが正しいリベラルである。それは政治的に考えれば当然であるし、そうでなければ政治思想としては成り立たないであろう。しかしながらリベラルがロックの自由を規定しようとすると、政治的規範をもロックに紐づけようとし、結果的にロック本来の自由は失われることになる。一見すると相性の良いはずのリベラルとロックが相反する理由はそこにある。つまり、自由という大きすぎる物語を拡張し過ぎた結果、個人が個人でいるための自由=ロックは事実上死んでしまったのであろう。それは実社会やインターネットで起きていることにもかなり重なる部分があることはもはや説明するまでもない。自由な個人はリベラルに発見され、時に社会の表舞台から退場させられる。自由は自由として規定された瞬間に自由ではなくなる。それがリベラルの功罪だ。

こうした構造から考えるに、時に人々が「ロックは死んだ」と感じるのは、リベラルを内面化した私達の精神が無意識下においてロックを拒絶することに起因するのであろう。

 

こうしたリベラルと私達の構造は、前回記事でとりあげた朝井リョウさんの『正欲』にも書かれていることであるし、千葉雅也さんが最近ツイートしていたことにも接続する

ひとつのツイートだけを拾って意味を解釈するのは難しいのだけれど、千葉さんの普段 のツイートを見るに、リベラルが多様性を標榜し、マイノリティーを包摂しようとすることに強烈な違和感を覚えていることは想像に難くない。

自由とは、時に別領域で展開されてこそ自由である。それらをすべて政治的なものとしてジャッジすること自体が過干渉で、ベタに言えば余計なお世話なのであろう。千葉さんのように「政治的な正しさの判断を個人の嗜好にまで入れ込むこと」に違和感を覚えている人はかなり多い。そして、その違和感を見事に描写していたのが朝井リョウさんの『正欲』だった。

 

このような「自由と自由の相反」はロックスターと呼ばれる人の発言を見るとわかりやすいかもしれない。

たとえば、 マリリンマンソンは「あなたの曲を聴いて自殺する人がいるかもしれない」と尋ねられ、「そんなバカは死んで当然だ」と答えたり、「精液でも飲んでろ」などと発言している。トムヨークも「パパラッチは全員交通事故に遭って死ねばいい」と言った。リベラル的な正しさという基準で判定するならともにアウトな発言であるが、大事なのはこのような発言ができる「外の空間」がかつてはあったということであろう。もちろんこのようなある種の粗暴さは手放しで容認できるものではない。しかしながらこういう発言をしうる自由な場所が政治的な闘争とは別に存在していたことは確かである。そして、そのような空間があったからこそこうした発言が容認できていたし、そこにロックは存在できていた。政治的なレベルで発言の妥当性を問いもしない空間。ロックが歌っていたのはそのような非政治性だったのだ。

翻るに今の社会において、こうした発言が政治的自由たるリベラルのキャンセルカルチャーによってパージされうるのは一目瞭然である。すべてが政治的判断の餌食となってしまう。非政治的なものの存在が許されなくなると外の空間はなくなり、主体的自由は毀損される。もはやこの世界の条件的にマリリンマンソンのような発言を僕達はできないでいる。発言したとしても人々がリベラル的価値観をほとんど自明のものとして内面化してしまっているために、そのような発言をしても狂人としてしか見られないであろう。

こうした現象は最近ことさら話題になっている適応の問題にもつながる。情報化社会によって政治が市民レベルにまで侵食した結果、すべてが政治的に判断される世界において、個人はそこに適応するかしないかの二択となる。かつてロック(やそれを聴いていた人々)がそうしていたような主体的自由は政治的自由に侵食され、適応するかしないかのゲームが始まったのだろう。人々が主体として持ちうる自由は多様性が届く範囲のみで、その外にいることは難しくなった。多様性の内側において「精液でも飲んでろ」と言う自由はないことは周知の通りである。

このような状態を振り返るに、ロックが死んだと言われ始めた時期と人々の適応がはじまった時期は重なりはしないだろうか。

主体的自由は消え去ると子供が公務員になりたいと言ったり、損得勘定キョロ充と言われる人々が出てきたり、若者が暴走しなくなったり、物分かりのよい若者が増えたと言われた。このような適応の時代でロックはその存在感を失っていった。ロックが死んだと感じるのはこうした社会の趨勢と無関係ではないであろう。

客観的かつ政治的な適応によって自由に再配置されていく人々はかつてロックが歌っていた自由とはむしろ逆である。主体性を排除し、社会へと適応していく人々にとってロックは必要となくなった。そのような文脈で言えばロックは確かに死んだのだ。

 

こうした状況を鑑みるに、ロックは反権力ではなく、むしろ非権力及び非政治的なもの、あるは社会の外側の主体として考えられるべきであろう。

「ロックが非政治的である」と言うと「ロックは幼稚で無責任なものだというのか」と批判されそうであるが、そうではない。ある種の幼稚さや無責任さを持っているからこそ、個人を自由へと開いてくれる。ロックや文学は無責任なものだからこそ政治や社会から距離をとれるものとして機能する。村上春樹さんがエルサレムで「私は常に卵の側に立つ」と言ったけれど、それを無責任だという政治的批判とは別領域で展開されるもの、それがロックであり文学なのだろう。それを政治的なものとして権力なのか政治なのかそうでないかと判断することがそもそもの間違いである。仮にロックを政治的なものとして扱うのであれば、ロックは最初から死んでいる。そもそも政治的なものではないのだから。

 

ロックにかかわらずこうした政治的ジャッジを個人の内面にまで敷衍した結果、いまや誰もが適応競争に参加する事態となった。「僕達は適応できない」と言う弱者男性や、「男女平等に適応しろ」と言うフェミニズム。国への過度な適応を果たしている右翼界隈。そして多様性やメリトクラシーなどに過剰適応しているリベラル。あるいはもっと広く言えば都市に適応する都民、インターネット作法に適応するネット民、Z世代。

すべてが適応のもとに位置づけられる社会においてこそ必要なのがロックが歌っているような「社会の外の主体」であるのだけれど、最近になってそれは復活してきているような気もしている。『うっせぇわ』もそうであるし、若者に支持されているヨルシカも見事にこの社会の外側の主体を歌い上げている。

みなどこかで気づいているのだろう。適応などしていてもどこかでドン詰まることに。現実的には適応しないわけにはいかないのだが、適応とは時に極めて危険であり、社会や政治とは別領域の音楽や文学(あるいは友人や恋人)に身を寄せてこそ「戦う」ことができるのだと。

その意味でロックは死んでなどいない。政治や社会の外側で生きていくためのロックは復活しつつある。それはすごくポジティブなことだと思っている。