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恐山インターネット日記~SNSは「結局は自己都合の道具」~

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「結局は自己都合の道具」

「というのも、仏教によって君が考え出した理屈だろう」

「そう。そして、理屈はすべからく因果律に規定されるから、ぼくのも自己都合の理屈にしかならない」

「すると、いわゆる『真理』とは? どう定義する?」

「より『所有』効果の高い『自己都合』理屈の、限定的共有化であり集団化」

「そう思うから、話すときには何ごとも『私流』と言いたいわけか」

「そう。ね、よくできてるでしょ」

 

 

「より所有効果の高い自己都合理屈の、限定的共有化であり集団化」と、ここまで言われると気持ちの良さすら感じる。言及先ブログは『超越と実存』で小林秀雄賞を受賞した恐山院代の南直哉さんのブログ。かなり前から読んでいるのだけれど、自分のブログで言及したことはないと思う。理由は単純で私のような若輩者には手に余る話をされているので。言及先記事も禅問答のような話で、正直、私に何か書けるとも思わないのだけど、「所有効果の高い自己都合の理屈」というのは昨今の世相にたいして的を射すぎていると思ったので言及してみる次第である。

 

 

身も蓋もない話をするとネットで見る政治論争も自己都合の理屈でしかない。勉強、進学、就職、結婚、夢、幸福など自らの現実を縛っているかのように見えるアレコレも、言ってしまえば自己の都合でパッチワークしたハリボテに過ぎない。そこからなにがしかの真理を見出したとしてもそれは限定的に共有され、自己と似た感性を持つ他者の都合に疑似的に結合されるだけである。人間はみんな孤独だ。なればこそ自己の都合を誰かと共有せずにはいられず、それは限定的であればあるほど「所有効果が高い」ものになる。孤独には限定された他者が必要であり、そこには真理などない。あるのはそう、都合だ。

 

もちろん、このような、すべては主観に過ぎず客観的に見いだせる価値などないといった極論は別の沼にハマることになる。それは承知している。「我思うゆえに我あり」みたいなデカルト的な懐疑論を全肯定してしまうのは逆にピュアすぎる思考であり、実証主義などの近代哲学や科学にたいする冒涜になってしまう。なので一概にすべては自己の都合によるものだと言いたいわけではない。しかしながら、今の僕達は「それが自己の都合に過ぎないという出発点」を忘れてしまったのではないだろうか。出発点を忘れ、客観的な情報から自己にとって都合の良いものを選択的に切り取ることでそれを矛とし、時に盾として装備する。自らが裸であることを忘れ、客観的情報と自己の都合の別離を忘却し、「それ」と「私」の境界線が曖昧になり、自己が客観的情報と一体化してしまう。あまりにも抽象的であるけれど、様々な問題に通底しているのがこのような認知の錯綜だと言える。

 

概して言えば僕達は情報の奴隷である。自分自身ですら自分がどのような考え方を持っているのか本当のところわかったものではない。「そういう教育を受けたからそういう人間になっただけだ」というのは上の世代や下の世代を見ていると瞬時にわかる。

そうした中でみなそれぞれ自分にとって都合の良い情報をかきあつめ理論武装したつもりになっているけれど、結局はそれも自己都合の道具に過ぎないのだろう。客観的情報を集めるという行為も主観的な認知を通してしかそうすることができない。男性は男性にとって都合の良い情報をかきあつめ、裸の自己が凍えないようにそれを装備する。女性も同様に女性にとって都合の良い情報を集める。そしてそれを装備する。時に男性フェミニストが性犯罪者であるといったニュースが流れてくるのもフェミニズムは女性にモテるための道具として都合が良いからであろう。しかしながらフェミニズムという女性性を装備したとて一皮むけば裸の男性がそこにいるだけとなっている。

老人も自らの老いという都合により保守化する。リベラルがメリトクラシーを唱えるのも彼ら彼女らにとって都合が良いからであろう。「結局は自己都合の道具」という言葉を通して見るに、現在流通している思想めいたものはおよそすべてが「それぞれにとって所有効果の高い自己都合の道具」といって差し支えない。そのように展望することができる。

人間はだれしも自分がかわいいので、自分にとって都合の良い考えを持つことは当然であるし、それ自体はなんら問題ないのだけど、問題はそれが客観的な正義であるかのように偽装されていることであろう。結局は自己都合の道具でしかないものを客観的な正義として偽装すると拡張性を帯びることになる。自己都合の道具であったはずのものが人を殴る道具となってしまう。これが客観的だ、これが正しい認識だというふうにすると、自己の都合でしかない思想が権威を帯びて、「限定的共有化」は解除されることになる。その果てにポリコレ棒や人種差別のような問題に発展する。思想が暴力となるような事例はすべてこのような構造を持っている。

すごく簡単に言えば「人と人は違う」とだけ言えば済んでしまう話ではあるけれど、僕達はいとも簡単にそれを忘れてしまう。人種に関して言えば、いまや僕達のほとんどは差別しないでいられる。しかしながら思想的な差異にたいしてはあまりにもピュアに同質化しようとし、時に啓蒙する人も出てくる。「人と人は違っても同じ考えにはなれる」と謳っているネットリベラルが代表的であるけれど、それは思想的な枠組みにおける「差別」だと断じてしまっても良いであろう。

結局は自己都合の道具でしかないのだ。情報も思想も人生もなにもかも。そうした原理を忘れてはいけない。思想や情報に人生を預けることは自己と情報との別離を忘れることであり、それは時に極めて危険なものとなる。ネットで先鋭化していく人々を見るたびにそう思う。

自己の都合は限定的に共有されるべきものだけれど、インターネットはそのすべてを忘れさせる。情報に埋没していくことで現実の自己を上書きするような装置となっている。ボードリヤールは近代において現実は問題にされなくなっていると説明し、それを「ウルトラリアリティー」と喝破したけれど、自己の都合と情報の境界線が曖昧になると自己が情報そのものに変化してしまう。それを持ってして先鋭化するのであろう。具体的に言えば「いいね」などで承認欲求に狂った結果、自己が承認装置と化してしまい、本来はそれと矛盾するはずの自己を忘れるために加速度的に情報と一体化してしまう。そうして狂っていく。

このような仕掛けによって、ネットで見るような思想は「承認によって機構化」される運命にあり、とにかくスケールを拡大することに躍起になっている。自己を忘却した人々によってそれは加速していく。いまや全人類をリベラル(あるいは保守)と化すかのごとき啓蒙が行われている。実際にポリコレやコンプラなどは世界のルールになりつつある。全人類に自己の都合を忘却させ、すべての差異をなくすことで多様性に終止符をうつことが多様性であるという撞着した顛末となっているのだ。

 

インターネットではありとあらゆるものが偽装されている。それぞれの自己の都合すら、もはやどこにあるのかわからない。というよりも「問題にされていない」。自己の都合が出発点であるという原理は取り沙汰されなくなった。保守は保守として正しければ保守であり、リベラルはリベラルとして正しければリベラルというようにインフォームド(形式化、情報化)されている。 そこに自己の都合は存在しない。ありていに言ってしまえば自己などどうでもいいのである。

そして、そうしてつくられた形式に自らの都合を投射する人々がいる。SNSにより統計的に水平化され形式化された「他者の価値」のうちに自己の都合を投射するのは極めて受動的な行為であるが、それが能動的な社会への関わりであるかのように偽装されている。リベラルが時に権威主義的に見えるのは「そこに誰もいない」からなのだ。

 

自らにあるのは原理的に自己の都合でしかない。それを忘れてはならないし、ましてやインターネットに自己をアウトソースするような真似はやめたほうがいいのだろう。

当然ながら我々は社会的動物なので自己の都合だけを気にしていれば良いわけではない。社会で生きている限りそこには他者の都合もあるし、情報にも触れなければいけない。しかしながら自分と他人は別な存在である。そして、他人によって形作られている世論やSNSも「原理として別」なのである。

すくなくともそうした峻別をするべきであろう。そうするためには、どのような思想も結局は自己都合の道具でしかないという、その出発点を忘れてはならない。人間はみなおよそ孤独である。さればこそつながれる。つながり自体によってつながれてはならない。それは必ずタコツボと化し、先鋭的になっていく。「同質的つながり」はそれを先導する政治や企業にとって都合が良いだけである。

 

 

※蛇足

やはり手に余った

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