メロンダウト

メロンについて考えるよ

五輪の終わりと嘘の社会

五輪が中止になるのか強行されるのかが大変話題になっているけれどコロナ以前にもすでに五輪反対の声は根強かったことを思い出す。競技場の建設費及び現場監督者の自殺、エンブレムの問題、東京湾がうんこまみれ、猛暑対策として打ち水、想定よりも膨れ上がった予算、IOCの金満体質など。コロナ以前からすでに問題だらけだった。それらを逐一あげつらってもしょうがないので言及はしないけれど、総体として五輪を見た時にそれを否定する方向に向かうのが日本の諸問題と連関している気がしてならない。かなりこみいった話で言語化できるかわからないが、すこし書いていきたい。

 

そもそも我々が考える豊かさとはなんだろうか?経済的に余裕があることを豊かさだと言う人、多種多様な文化を享受できる環境を豊かさだと言う人、人間関係が開かれている社会を豊かさだと言う人など様々あるが、これらすべてに共通していることは「個人の裁量において個人が自由に生き方を選択できること」だと言える。経済的豊かさも文化的豊かさも社会的豊かさもそれらを選択できる自由のうえに成り立つことはおよそ間違いないことである。

豊かさを選べることが自由そのものであり、その意味で五輪を支持する人がいるのであれば「彼らの選択」も尊重するべきだと言える。それこそ人生を賭して五輪を目指してきた選手であったり、「もう一度東京で五輪が見れるんだ」というノスタルジーを持つ高齢層であったり、僕達がそれを否定する裏で五輪の開催を望んでいる人々は確実にいる。彼ら彼女らの存在を忘れてはならないだろう。論理的に考えて五輪は問題だらけであり、俯瞰して見た場合に今回の五輪は見送るべきだという意見も当然である。僕個人も否定的ではある。それでも安易に五輪反対だとは言いたくはないのだ。今回の五輪の騒動に見られるように、論理的な選択及び比較論のすえに社会が動いていくことそのものがこの社会のなんたるかを標榜している気がしてならないからである。

我々はすべてを比較している。五輪は開催するべきか否か、どちらがマシか、どちらを助けるべきか、どこに投票するべきか、誰を救うべきか、誰を弱者とするか、誰を強者とするか、誰がかわいそうか、誰が道徳的か、誰が自由で誰が不自由か、誰が被害者で誰が加害者か、誰が正しくて誰が正しくないのか。こうした比較論のすえに社会的な合意が形成され、その合意のもとにすべては処断されていく。このような世論の動きにはほとほとうんざりしているのだ。弱者と強者、五輪反対賛成、論理的か非論理的か、優秀か優秀でないか、大卒か高卒か、右か左か、築地か豊洲か。すべてが論理の地平にさらされるこのありようそのものが分断を生んでいることにいい加減に気づくべきであろう。

五輪を例にとって見れば選手や国を責めるのではなく、そうまでしてやりたいのであれば「わかった。俺らはひきこもってテレビ見て応援しているからな、人生賭けてんだろ、今しかないならいっちゃえ、気にすんな、一生に一度のお願いだろ?大丈夫、後ろはまかせろ。」というスタンスがあっても不思議ではない。

人それぞれ豊かさは違うのだ。なればこそ他者がそれほどまでに大事だと思うものはまず尊重しなければならないはずだ。それが翻って自らが豊かでいられることにも繋がる。しかし、そのような話は五輪に限ってみればほとんど見かけることはない。論理的に五輪はやるべきかやらないべきかという話に回収されてしまう。このような議論のありかたそのものがこの社会を分断している。分断とは必ずそこにある論理に根差している。論理とは思考に張り付くウィルスみたいなもので、論理的に考える限りにおいてそこに次善の策は勘案されないのである。是か非かしかなくなる。そうしてできた分断をまた分断かそうでないかという議論へと還元していく。分断とは分断論でしか議論しえない言論空間に派生するものであり、それによって先鋭化した勢力がお互いをマッチポンプとしながらさらに論理に埋没していき、是か非かでしか議論できなくなることに起因している。そのような「状態」を分断と言うのだ。

自民党は支持していないが他にいれる野党がいないみたいな話もそうであるし、フェミかアンチフェミかというくだらない話にしてもそうである。分断が始まる前から分断を前提に議論されているのだから分断しないはずがないであろう。

五輪に関しても分断が言論空間を支配している。是か非かしか言えない現状の言論空間及びコロナ禍において選手が「それでも人生を賭けてきたのでやりたいです」とは言えなくなっている。やるかやらないかという二択で迫る以上、「選手が五輪を望んで反対派が今回は見送らせてください」と言うプロセスを踏むことができない。えてしてプロセスが心情を宥め、妥当な合意を形成する。そもそも五輪をやるかやらないかはありていに言ってしまえばどうでもいいのである。それよりも深刻なのが五輪をやりたいですとすら言えない社会のほうであろう。たとえ五輪が中止になろうとも、選手がやりたいと正直に言うことができること、そして僕達がその選手の心情を汲んで「今回は本当に申し訳ないんですけど」というプロセスを経なければ、またいつもの分断に戻っていくだけとなる。

実際に五輪をやりたいですと発信している選手はほとんど見ない。即座に炎上するとわかっているからであろう。選手が正直な気持ちすら言えない。そのくらいこの社会は信用されていないのだ。やりたいですと言えないので暗黙的な世論によって合意が形成され、その合意に半強制的に従うしかなくなっている。当然ながらそこにプロセスが介在する余地はない。全員が黙るしかなくなっている。そのような状態である以上、プロセスを経ることによって生じる慰めも存在しえない。

そうして誰もなにも言えなくなり、また右か左の勢力図に社会が吸収されていく。そうして嘘の社会ができあがり、嘘の社会にたいしてこの社会は分断していると社会学者などが嘆く。このような状態である以上、まずもってその「巨大な嘘」をやめるべきであろう。さもなければ誰が何を考えているのかすら不明となり、議論そのものが成しえないのだから。

ダブルスタンダードという批判は間違っている~嘘をつけない社会がつくる嘘の社会~ - メロンダウト

 

確信して言えることだが誰もかれも本当にそんなことを思っているわけではないからだ。ラディカルフェミニズムにしてもリベラルにしてもセクハラにしても文春砲にしても誰かが巨大な嘘を言い、その嘘に迎合するアーリーアダプターがいてそれが嘘がどうかすら関係なく面白がる人が嘘を拡散し、嘘をもとに社会を形成しつつある。そのような現象がここ数年、事を欠かない。