メロンダウト

メロンについて考えるよ

戦争に負けた。それがすべてだったのではないか~加速主義、儀礼性、敗北主義~

宮台真司さんが加速主義を提言している。加速度的に社会が駄目になれば人々は真の意味で連帯するようになるというものだ。社会が駄目になれば人が輝くと言う。簡単に同意できる話ではないけれど価値観の変遷という意味で言えば加速主義しかもうないのだろうな、という諦観が僕にもある。
リベラルのポジティブに見えて何も考えていない連帯、自民党の欺瞞的な政権維持戦略、個人主義によってバラバラになった我々、資本主義を内面化した恋愛、格差社会による人々の断絶。これらをもう一度社会の地平に晒すことで「現実」を取り戻すと加速主義は言う。加速主義というスクラップ&ビルドは理論的には正しいのだろう。しかし、当然ながら加速主義には相応の痛みが伴うことになる。


社会が駄目になればその過程で傷つく人が必ず出てくることになる。直近でも中等症以下のコロナ患者は自宅療養にすると菅政権が発表している。駄目な人民は駄目な政府を選ぶようになり、駄目な政府が出す政策によって実際に亡くなる人が出てくる。コロナが長期戦になることはほとんど自明であったにも関わらず病床やPCR検査の拡充をほとんどしてこなかったことが医療が逼迫している根本の原因としてある。駄目になった社会が選んだ政治によって我々は自宅療養を余儀なくされている。その意味で加速主義はすでに実現しているとも言える。菅総理の説明能力の無さも感染を拡大させる要因となっている。社会が駄目になればその過程において駄目な政治を選ぶことになり、現実に病院にも入れずに亡くなる人が出てくる。
加速主義には相応の痛みが伴う。そんなことは宮台さんもよくわかっているのだろうし、それでもあえて加速主義を言っているのだということは理解できる。消去法的に加速主義しか解がないのだろう。

 

しかしこういう「痛みの受容」みたいなことは今の社会で最も忌避されていることだったりする。弱者救済というリベラルのお題目をはじめ、人々に痛みを伴う政策やビジョンを掲げることは実質的に不可能な社会になっている。あらゆる他者への加害性をハラスメントとして発見し糾弾するリベラルに限らず、政治的には右派であろうとも弱者に痛みを伴う政策に賛同する人は極めて少ない。無党派層に関しても加速主義に同意する人は少ないであろう。
社会がどれだけ駄目になろうとも人々に痛みを強制してはならないという「儀礼性」によってこの社会は一応のところ成り立っているのだ。儀礼性こそがすべての党派性を超える支配的な価値観である。本当の本当に社会が駄目になり、それこそ人間の自然状態、万人の万人に対する闘争とでも呼ぶべき状態(リヴァイアサン)になろうとも、それでも日本は「儀礼性」によって一応の社会を確保しようとするであろう。それが日本国民の唯一と言ってもいい国民性である。それは社会を維持するという側面で見れば善性でもある一方、この社会のあらゆるところを固着させ、欺瞞させ、ポーズさせ、プリテンドさせている。
そうした儀礼性をすべて撤廃することが果たしてできるのであろうか。そこに疑問を持つのだ。加速主義は社会が駄目になれば人々が連帯するようになると言うけれど、現実に人間は死ぬ直前までいっても助けを求めることが難しかったりする。日本において特異に高い自殺者数を見てもそれは明らかであり、ホームレスの方、生活保護を申請できないことなどもそれを証明している。どれだけ凄惨な状態にあっても「儀礼性」のほうが上位にきて、死ぬまで孤独にふし、実際に亡くなる人がいるのだ。そうした方々はまったく特殊ではない。むしろ我々が普段行っているコミュニケーションの作法と完全に地続きであ。相手にたいして失礼な事を言ってはいけない=ビジネスマナー=相手に助けを求めてはいけない=相手を批判してはいけないなどすべて儀礼性によって連動し、この社会は体裁を保っているのだ。そうした儀礼性が様々な問題を生んでいるとはいえ、儀礼性をすべて撤廃して万人の万人にたいする闘争にしたとて、それが加速主義としてうまく機能するかは甚だ疑問である。むしろ、単にみな孤独死していくだけという最悪の結果にもなりかねない。それは絶対に回避しなければならないだろう。
ホームレスの方から学ぶように、我々は貧窮したら孤独にふしてゴミを漁る。それは(加速主義の結果として)すでに起きていることなのだ。

 

個人的に、根本の根本にあるのは自主独立の問題ではないかと思っている。結論から言えば日本は戦争に負けた。それがすべてではないかと。高度経済成長期とは、ようするにアメリカ型の資本主義を敗戦国として従順に貫いた結果実現した時代だったとも言える。ソ連アメリカの冷戦下、冷戦後において日本は敗戦国としてアメリカ型の資本主義を忠実に実行していた。それは経済成長という側面から見れば良いことであったし、その中で猛烈サラリーマンのような、生き方の雛形のようなものも生まれたわけであるが、しかしそれは敗戦国としての姿でしかなかったのではないかと振り返る必要があるように思う。高度経済成長期のように経済的に成功してようが、今のように儀礼性に埋没して低迷しようが、敗戦国であるというその源流は変わっていないわけである。以前はアメリカ式資本主義に迎合していたし、今はアメリカ式リベラルに社会が飲み込まれている。日本は戦後、自主独立という国家のありかたをほとんど考えてこなかったのではないか。加速主義というのもその意味では再帰的な概念でしかない。戦争に負けて人々が団結し、産業を発展させて日本が経済大国になったというのは事実としてそうであるが、しかしそれは敗戦という経験なくしては実現していなかった。敗戦という経験を経て反骨精神を醸成し、戦うことは、一見すると自主独立のように見えてもその実態は違ったのではないだろうか。日本は戦後、アメリカの資本主義に盲従していたに過ぎないという見方もできる。そうした盲従によって経済成長をし、対外的に見れば豊かになったわけであるが、必ずしも勝者が独立しているとは限らない。むしろ半奴隷的な状態で資本主義にコミットしたほうが経済的に勝つことがある。それがかつての日本であったのだろうし、いまの中国なのであろう。
以前の日本は単にアメリカの資本主義に盲従し、猪突猛進していたに過ぎないと振り返ることができる。その意味で、もう一度疑似的な敗戦状態にしてかつての経済大国や三丁目の夕日のような連帯を取り戻そうという加速主義は根本的な解決にはならないように思う。加速度的に社会が駄目になったとて、もはや寄る辺がないのだ。敗戦後にはアメリカ型の資本主義があった。それに日本国民がフルコミットした結果、経済大国を実現したのも事実であろう。しかし、いまこの社会が駄目になったとして、僕達はどこに寄る辺を求めるのだろうか。
「敗北民」である我々はあらゆるところに寄る辺を求める。世界的に言えば、多くの人々にとっての寄る辺は宗教であるが、日本国民にとって宗教は一般的ではない。そうした中で我々は疑似宗教とでも呼ぶべき妄想を呼び出してきてはそれを寄る辺としてきたのだ。それがかつての資本主義であり、今は社会の儀礼性なのであろう。もっと昔で言えば天皇がそうであった。今の我々は儀礼性に寄り、社会という体裁を保っている。しかしながら同時に、社会の儀礼性に従って孤独死していく人々もいる。あるいは儀礼性によって恋愛しないこともそうである。すべてに通底する儀礼性が今我々がコミットしている敗戦作法であり、疑似宗教でもある。自民政権を消極的に支持するという敗戦投票とでも呼ぶべきものもそうであるし、アメリカ型のリベラルキャンセルカルチャーを輸入していることもそうである。もしくは被害者が正しいとされる昨今の言論空間も敗北主義的と言える。自主独立的にビジョンを掲げ、国家のありかたを考えるみたいなことはもうずっとしてこなかったのである。それは経済大国と言われていた昭和からそうだったのであろう。思い返せばアメリカ型の資本主義システムを導入した小泉元総理の新自由主義政策も、アメリカを真似る敗戦型資本主義の最後っ屁みたいなものだった。

 

加速主義という提言は大変に面白い。しかしそれが日本において解決策になるのかというと疑問が残る。宮台さんはクリスチャンであるせいか、日本人の無信仰さかげんをどこか見誤っているのではないだろうかとも思う。寄る辺なき人々の弱さをなめてはいけない。困窮した個人がクリスチャンになり、隣人愛を標榜するようになるだろうという加速主義の目測は、端的に言って日本人に期待しすぎているのではないだろうか。「人は弱い」という言葉以上に日本人は弱い。敗北主義はとても根が深い。それはかつての敗戦によって醸成された価値観であるものの、もちろん戦争に負けたことを責めることはできない。それでもなお自主独立の道を歩まなければもたない段階まできているように思う。その解決策が加速主義であるかどうかは、自分なんかにはわからないものの、宮台さんが抱えているような危機感は共有されてしかるべきだとは思っている。
いずれにせよ日本は戦争に負けた。振り返るにそれがすべてだった。しかしもう敗戦国の敗北主義で賄うには限界がきている。
礼の精神、そして八百万の神などの自然主義、あるいは外圧、グローバリズム、SDGs。外部の環境を受け入れるべきだという敗北主義的思考様式をなんとかしないとすべてが消極的かつ自然的に決定していくことになるであろう。それは日本においてとても根が深い。敗北主義という悪癖は加速主義のような条件付けによってなんとかなるものではない。個人的にはそのように思っている。山本七平が言っていた「空気に支配される日本」という言説はとても重いのだ。我々は窒息しようともその空気を吸おうとする国民である。閉塞感と呼ばれるものもそれと連関している。どれだけ閉塞しようとも儀礼性によって社会を確保し、空気に従おうとする。それは時にヒューマニズムや優しさなどと呼ばれる一方、抗いがたいものとして我々の現実にたちふさがってもいる。
方法論としての加速主義はとても示唆的である。しかし、それ以前の問題としての敗北主義をなんとかしないとどうにもならない。けだしそんなふうに「感じる」のだ。