メロンダウト

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一般意志から考えるブルージャパン騒動~欲望を忘れた世界で~

ブルージャパンが立憲民主党の広報機関であることが判明し、炎上している。立憲民主党がブルージャパンを経由し、活動資金を払っていたCLP(Choose Life Project)は公平なメディアを謳っていたけれどその実、立憲のプロパガンダ機関であったと。
このニュースに言及する形でひろゆきが「そもそも公平なメディアなど存在しえない」と言っていた。
「公平中立な報道はありえるのか」という問いはかなり深い問題を孕んでいるように思う。
 
 
公平とはつまり客観と言い換えても良いけれど、日本人は客観的なことが正しいという思考の癖があるように見える。コロナ禍で頻繁に取り上げられているエビデンスという言葉しかり、客観的であることがつまり公平であるという意識があるため、みなできるだけ客観的であろうとする。
コロナのような事態であれば科学的知見、客観的なデータにもとづく判断が必要とされる一方、本来は科学的ではない(科学では語りきれない)政治や社会までも過度な客観性により判断「できると思う」ことが間違いなのだ。
 
一般に政治の現場で投票を左右するイデオロギーや価値観といったものは客観的なデータによって成り立っているものではない。その人の生活や社会関係、経済的状況など様々なものに左右される。たとえば資産持ちの富裕層であれば保守的になり、労働者であれば再分配政策を重視するリベラル政党を支持するのが一般的だ。もちろんイデオロギーに張り付いて自らの利得を超えた投票行動を行う人もいるが、そうした「政治人」は稀であるだろう。あるいはそうした政治人さえも政治を自らの物語として選んでいる点で主観的であり、状況に左右される大衆の一人に過ぎないと言える。こうした個々人の投票行動を特殊意志と呼び、その総和がつまり全体意志と呼ばれるものだ。一般意志は全体意志から個々人の私的欲望を差し引いた成員の共通善のことである。
注意すべきなのは「特殊意志、一般意志、全体意志」のどれもが客観的なものではない点だと言えるだろう。
特殊意志とはつまり社会関係諸々を含めた個人の欲望(主観)に過ぎない。全体意志はそれを集めたもの(主観の総和)だ。一般意志は全体の共通利益を抽出したものに過ぎず、もとを正せば特殊意志から発せられるものであるため、主観的である。
 
民主主義のプロセスはフィルターを介した主観の集まりでしかなく、あらゆるイデオロギーはその過程において濾過されていくだけのものなのだ。成員全体の共通善という、一見すると客観的に思える一般意志を例にとって見ても主観的なものである。たとえば今の社会において最も一般的な一般意志は「侵略戦争をしてはならない」だと言えるが、場合によっては戦争を始め、それに国民全員が賛同することもあるだろう。仮に、数十年後に日本が沈没するような事態になれば、僕達は新たな領土を求め併呑か戦争かどちらか選ばざるを得ないことになる。その時、僕達は僕達の主観において他国に戦争をしかけるのだ。もちろん今の科学技術で侵略戦争など仕掛ければ人類全体にとって悲惨なことになるのは「客観的」には明らかである。それでも僕達はその時がきたら民主主義により戦争を決定することになる。いや、決定することが「できる」のだ。
もちろん戦争など誰もしたくない。そんなことはわかっているものの、そうしなければいけない時、そうすることができるというのが主観により政治的な契約を結べる社会契約論の本分ではないかと、僕なんかは思っている。
 
主観の弾力性を持ってして民主主義は成員全体の利益を「客観性から守る」ことができる。しかし今起きていることは逆だ。客観性が人々を守るという逆説が正しいとされているのである。もちろん陰謀論など過度に主観的なものも問題ではあるし他者を考慮しない投票行動を取る人ばかりになれば民主主義は機能しない。共通善としての一般意志が消滅するからだ。
しかしながらそれと同時に過度に客観的なものも問題なのだ。客観的なことが正しいとなれば個人の欲望はすべからく矯正されることが正しいとされ特殊意志が消滅するからだ。
 
こうした政治的主観・政治的客観のアンビバレンスを加速させるのが「過度に客観的なものはない」という勘違いである。客観的なものにたいし無警戒に受容するようになれば主観が侵食され、特殊意志を表明することが難しくなり、民主主義が民主主義たりえなくなる。それが政治的客観の罠だと言えるであろう。
つまり人々の主観を客観的なものに塗り替えようとする啓蒙主義権威主義官僚主義、客観的(に見せかけた)報道は民主主義を瓦解させかねない。その危険性があると知っておくべきだと言える。
主観と客観はどちらも「過ぎたるはなお及ばざるが如し」であり、陰謀論的に主観に侵食されようがリベラル的な全体主義に取り込まれようが、どちらにしろ民主主義は機能しない。
 
政治は主観的であるからこそ状況適応的に成員の利益を守ることができるというのが民主主義の礎だと言って良いが、しかし今、すくなくない人々が政治を客観で語ろうとしている。あるいは政治が原理的に主観であるべきだということを忘れている。その代表が「公平なメディア」を謳うCLPであり、あるいはコロナ禍においてエビデンス「だけ」をもとに政治を行おうとした人々であるのだ。
 
 
 
とりわけ日本人は「客観幻想」が強い。特にリベラルに顕著である。左巻きの人々は何が客観的かを常に探している。最近ではSDGsなどがそうだ。公平で客観的な価値観や、それに基づいた報道が正しいと考える人々が一定数いる。マスメディアなども例外ではなく、できるだけ客観的な報道をするよう努力している、と度々聞く。そうしたメディアの報道姿勢は一定程度正しいわけであるが、しかしメディアのあるべき姿と市民のあるべき姿とは民主主義において別であるのだ。メディアやインフルエンサーなどが公平な報道を目指し、客観的な情報の発信に努めてそれを「完全に客観的なもの」として報道した時、僕達はそこに主観を介在させる余地がなくなる。僕達は知識人やジャーナリストにたいして反論できるほど賢くはない。ある程度知識がある人であればメディアスクラムからも自由でいられるけれど、そうでない人々はメディアと同質化し、個人の主観が正しくないのだと考えるようになる。そうして特殊意志が消滅し、政治が客観性に飲み込まれたのがここ数年の政治だと言えるであろう。
 
僕達は往々にして無知である。無知であっても主観的欲望を表明しても良い。それが「結果的」に機能するのが民主主義の本来の形であり、それを客観性で塗り固めること自体がそもそも間違っている。ようするに政治的議論や報道とは「哲学的」であるべきなのだ。個々人が考える材料を与えられ、私的欲望に基づくと考えた時、それがはじめて「ありうべき主観」として機能する。そうして出来た主観の総和=全体意志からありうべき客観的意見が残る。それをもってして初めて一般的な意見=一般意志が残る限り、主観を消滅させるような「公平を被る報道」は原理的に間違っているのではないだろうか?