メロンダウト

メロンについて考えるよ

本音としてのオープンレター、最終手段のキャンセルカルチャー

現在、リベラル派と呼ばれる人々の主張はようするに「本音を言えば社会は変わる」に集約される。本音を言えない社会では女性をはじめとした弱者が声をあげるのは難しいので本音を言える社会をつくろうとしている。そのために開発されたのがトーンポリシングだったり、マンスプレイニングなどの横文字であるが...そもそも「本音を言える社会」は前提からして間違っているのではないだろうか。


普通に考えて本音をぶつけあい始めたら社会は壊れてしまう。

みんなそれぞれ考えてることは違うし、大切に思っている事も、何にたいして怒るか、嫉妬するかもそれぞれ違う。どんな人生を送ってきたかわからない他者にたいし、本音で議論すること自体が相当に恐ろしい行為であるはずだが、本音でぶつかればわかりあえるというのは正直言ってよくわからないのだ。

むしろ議論とは建前を構築することに意味があったのではないだろうか?

社会や国家とはある種の幻想の上に成り立っていると吉本隆明が『共同幻想論』に書いているが、共同性のある幻想や建前が国家運営には欠かせない。議論とはつまり落としどころを探る営為であり、建前や幻想を現実にするための果ての無い作業である。
しかしながら今ツイッター上などで喧々諤々おこなわれていることは「個人の本音」をぶつけあうものである。当然ながらそうした本音の議論に着地点は存在しえない。人の欲望は「原理的」に衝突する。女性がいて、男性もいる。LGBTQもいる。誰であれ彼が語る本音は真実であり、真実が正しいという世界になれば相反する真実と衝突することになり、そこには落としどころがなくなってしまう。だからこそ手続きや建前という「偽善」が必要とされているのだ。

 

個人が本音を言って良い社会は対立する陣営と真正面からぶつかり合うことになり、消耗戦になってしまう。果てには名誉棄損やキャンセルカルチャーなどの恫喝行為及び訴訟により法的に決着をつけるという、およそ議論とは呼べない結末へと至る。
オープンレター騒動で某氏が某氏達にたいして内容証明郵便を送っていた件が最近話題であるが、内容証明郵便もようするにそれを送ったことが法的な事実として認定される点で「本音の証明」だと言える。内容証明郵便に何が書かれていようとも、つまりは手紙と変わらないわけであるがわざわざ内容証明郵便を送る心性そのものが今のリベラルをよく表しているように思う。つまるところ本音が正しいと思っている。それが今のリベラルなのだろう。

 

個人の多様性を多様なまま支持すると言っているリベラルがキャンセルカルチャーなどの最終手段に至ったのは偶然ではない。個人の多様性をそのまま認めることは個人の本音がぶつかり合う社会と表裏一体であるからだ。ぶつかりあえば折り合いがつかなくなり、相手をキャンセルするしか方法が残されなくなる。多様な個人の欲望をそのまま肯定すれば自然そうなる。

多様性は「スローガン」としては甘美に響くけれど、政治的な調停が必要とされる議論の現場に持ち出せば必然的に喧嘩になる。喧嘩になれば相手を叩きのめすか、あるいは第三者である司法に判断してもらうしかなくなる。オープンレターで起きていることもようするに「左翼の当たり前の帰結」なのであろう。


議論による調停を前提としない思想は文化であって言論や批評ではない。ましてや政治思想ではない。

現在、リベラルは様々な呼称で呼ばれているが、その中に文化左翼というのがあった。一昔前に使われていた左翼を揶揄する呼称であるが、この言葉の通り左翼が政治ではなく文化に頽落してしまったのが今起きていることなのだろう。文化であればどんな表現をしても良い(本音を言っても良い、それこそフィクションでは人を殺しても良い)けれど政治はそもそも文化ではない。文化で政治を行おうとするリベラル勢力が「一応は政治をやっている保守」に勝てないのは自明ではないか。


本来的なリベラルは自由と責任が一体のものだった。自由には責任が伴うというものだ。こちら側に自由があるようにあちら側にも自由があり、その衝突を引き受けることで双方の自由を守ることができる。それが本来のリベラルの形である。しかし今はその責任を引きはがそうとしている。それがトーンポリシングや二次加害なのだ。トーンポリシングと言った瞬間に相手の立場を考えないで暴言を吐くことが許されたり、二次加害と言った瞬間に相手の批判をすべて加害行為とみなすことで切断処理することができる。そうして個人が自由に思う本音がすべてという無敵のリベラルへと至る。

トーンポリシングや二次加害といった論理を構築し、本音の議論をする素地をつくり、本音をぶつける。本音をぶつけて反省しない相手には被害者性を持ち出してキャンセルカルチャー発動といった具合にすべてが本音によって成立しているリベラルのそれは議論としてひどく直列的である。個人的と言っても良い。あるいは、他者がいないとも言える。
どのような点が利益相反するのか、何が相手の気に障ったのかという想像力を持ってコミュニケーションを取り建前を構築するという面倒くさい議論は、彼ら彼女らにはもはや無用の長物なのだ。「自前の論理」で相手を直列的に判断し、単眼的な視座により断罪する。そんなものが普通に考えて社会に受け入れられるはずがない、ということすらもはや見えていないのかもしれない。


このような議論を説明するのがエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』である。
自由からの逃走ではようするに孤独になった個人はサディズムマゾヒズムの両極に分離すると書かれている。個人主義化した社会にあって、人は孤独になる。
その孤独=自由に耐えられなくなり、ある人は被支配的な関係に耽溺するようになる。最近の言葉で言えば被害者文化というやつで、自分を差別されている側だと喧伝し、そのポジションを取ることに躍起になるマゾヒズムが正しいと考えるようになる。
また、別の人はサディズムに至り、人々を啓蒙する立場を取るようになる。コロナ禍においてリベラルが設計主義や社会構築主義という態度を隠しすらしなかったのは、自由から逃走したサディズム的リベラルの成れの果てなのである。
サディズムマゾヒズムのどちらになるかはたいした問題ではない。自由から逃走すると「極度な人間関係」であるサディズムマゾヒズムという「他者がいない関係性」の中に埋没していくことになることが問題なのだ。

リベラル派に見られるものはようするにサディズムマゾヒズムによってのみ繋がった歪んだ連帯である。ツイッターでカジュアルにハッシュタグを打てば社会は変わると考えていたり、フォローされた人間に迎合するような「人間関係の軽さ」そのものがそもそもの問題なのだ。
そうした軽い人間関係では自分の本音を諫める他者が存在しなくなり、人間関係がマゾとサドのどちらかしかいなくなってしまう。

 

つまるところリベラルや、あるいは自由そのものが相当に危険な概念であることを僕達は知るべきであり、ましてや自由を発散することができるSNSは政治的な意味で言えば相当に警戒してしかるべきだと、けっこう前から思っている。

おそらくは今いるリベラル派が消えてなくなったとしても自由から逃走する人は無限に出てくることになる。その構造自体をなんとかしなければならないものの、個人が自由に生きて良いという多様性の御旗それ自体は間違っていないのでなんとも厄介だとも思う。