メロンダウト

メロンについて考えるよ

ホロライブと非モテと正しさと愛するということ

おひさしぶりです。というか最近はいつもひさしぶりな気がしますが(笑)
時間がないというわけではないのですけどね。戦争が始まってからここに書いたことはなんだったのかと、悶々としていたりします。
あとVtuberをすこし見ていたのでそのへんの感想でもと思い、書いていきます。

 

今インターネットで最も大きな影響力を持っているのはYoutuberだと言われてるけどこれまであまり追ってはこなかったのですよね。何年か前に主要なYoutuberを軒並み見たことはあるのだけど好きな人は見当たらなかった。みんなキャラが強すぎるせいか食あたりに近い感覚を覚えてしまったのだ。面白いのは面白いんですけどね。みんな動画を見せようとサムネイルを凝ったり字幕をつけたり過激なネタをやったりしていて、そんなYoutuberばかり見てるとサジェストされたホーム画面を見てるだけでお腹いっぱいになってしまった。何十万人も視聴者を抱えてる人は普通じゃないなと、すごく当たり前の感想を持ち、奇人変人の巣窟である動画界隈を見てると自らの凡庸さにめまいを覚えてしまった。以来、Youtubeを見ることはあってもYoutuberを見ることはなかった。しかし近年Vtuberなる人々が出てきて活気づいているというので改めて見てみた。


Vtuberを見始めたきっかけが潤羽るしあ氏の炎上からで、そこから興味を持ってホロライブ所属のVtuberを見ていたのだけど結論から言えば「Vtuber界隈は正しい」であった。

 

以下その理由を書いていきたいのだが、前提としていきなり突拍子もない話をすると独裁政治は民主主義よりも瞬間的には優れた制度であることに触れておきたい。独裁者が政治を行うほうが意思決定も速やかになるため、善き独裁者がいれば独裁政治は民主主義よりも正しい政治体制だと言われる。いわゆる権威主義と呼ばれるものは限定条件下にあっては民主主義よりも正しいと古典的には言われていた。

簡単に言えば民主主義は煩雑な手続きが必要とされ、そのたびに政治が後手を踏むためだ。当然、今起きている戦争のように独裁政治には独裁者の暴走を止められないという致命的な欠点がある。それを忘れてはならないものの、仮に善き独裁者がいるとすればそれは最良の政治だと言えるであろう。

そしてその「最良の政治」を地で行っているのがVtuberなのである。

ホロライブ所属のVtuberを見ていると生配信のコメント欄にほぼアンチがいないのであるが、これは旧来のインターネット観からすれば驚くべきことで、ニコ生などの生配信黎明期には配信者を煽るコメントも多く、別の配信者に凸をかけて文句を言いに行くことなども常態化していた。もちろんだからこそニコ生は廃れたし、そうした煽り行為が正しいとはとても言えないけれど、しかし多くの人間がいる空間でそういった軋轢が生じるのは当然だったとも思うのだ。民主主義における当たり前とでも言えば良いのか、与党だけでなく野党もいて、その空間をいかに御するかが、多くのリスナーを抱える配信者こと民主主義における政治家の手腕であった。

しかしもはやVtuberのコメント欄にはそうした民主主義はどこにも見当たらない。完全なるエコーチェンバーであり、もっと平たく言えばこれは独裁政治のそれだと思ってしまったのである。実際、Vtuberの配信にはコメントする時のルールが概要欄に記載されており、たとえば他の配信者の名前を出してはいけない、配信者の嫌がることは書かないなど、善きリスナーであることが要求され、リスナーもそれに準じてコメントしている。そこにはある種完成された世界が広がっていた。

そうしたルールの中で長年ネットで活動してきた「中の配信者」はリスナーの御し方を心得ており、時には自らをネタにし、時には真面目に反応することで独特の空間が形成されている。そして、そうした空気は政治的な意味でのナショナリズムに似ている。
ホロライブ所属のVtuberはリスナーのことを独自の名前で呼んでいて、たとえばさくらみこであれば35P、兎田ぺこらであれば野うさぎ、大空スバルであればスバ友と呼ばれているのだが、それはちょうど我々が日本国民としてのナショナリズムを刺激されるのと酷似しているのだ。リスナーはそうしたアイデンティティーに準じ、国民として正しい振る舞いを行っている。配信者が定めたルールの上でそこに所属していることにアイデンティティーを見出すというのは配信業である以上にもはや政治であり、ムラであり、あるいは国家であるとすら言えるものなのだ。

そうした独裁は正しく見えるし、事実ネットはもうそうした独裁が席捲したと言っても言い過ぎではないだろう。Vtuberの影響力に比べればブログ、ツイッターはてなといった言論界隈はいまや少数派も良いところであり、多くの人はみなそれぞれのエコーチェンバーの中で楽しくやっている。

ちょうど民主主義が人民の欲望に引き回されて混乱するように、ツイッターをはじめとした多くのネットサービスではまだ人々が入り乱れて議論が行われているが、そうした民主制を徹底的に排除していった独裁政治はややもすると正しく見えてしまうのだ。事実としてニコ生という民主主義は負け、Vtuberという独裁が勝利したのが今日のインターネットでもある。余計なつっこみや、かつてのニコ生クルーズのような外部からの目線、相対的視点はもはや必要とすらされていないのかもしれない。そしてそれで正しいのであろう。民主主義的な言論空間を守ろうとすることも大切なことであるが、独裁者による優しいエコーチェンバーに耽溺するのも悪くないものだと、Vtuberを見れば見るほどそう思ってしまったのだ。

当然ながら配信者と政治を混ぜ合わせて語るのは「両者は違うものだ」という批判がきそうではあるし、実際違うのだけれど、自分の考えからすると政治は単なる制度ではなく感覚でもあると思っているんですよね。なのでどうやって他者と関わっているかという、政治とは関係ない空間の政治性、その正しさを甘く見ないほうが良いようにも思う。


以上がVtuber政治的に正しい理由であるのだが、Vtuberのリスナーは男性としても正しい。それについても書いていきたい。

VtuberのリスナーはV豚と呼ばれている。ひどい話である。しかしながらそれもむべなるか、かなり「痛い」コメントやスパチャが散見されるのも事実である。以下一部であるが紹介してみたい。

 

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「本物感」があり、ガチ恋勢と呼ばれる人の心中を見るような感じがある。スパチャで5万円送る行為は客観的には狂っていると言えそうだけれど、いったんその狂気を脇に置いておくとVtuberへのこうした告白は「形式として」は正しいのではないだろうか。


というのも最近、ツイッターで男性の加害性についての議論が行われていた。よく議論になることではあるが、男性は女性にたいして告白するのもデートに誘うのも加害行為だと見なされることがある。弱者男性論者で有名なすもも氏のスペースをきっかけに男性のナンパは加害であるか否かも最近議論になっていた。女性は街中で男性に声をかけられれば多少なり困惑し、迷惑だと思う人が多いだろう。男性であっても見知らぬ人に声をかけられるのを迷惑だと思う人は少なくない。そうした意味でナンパは原理的に加害行為であると言えるのだが、そうした声かけの加害性を極限まで漂白したのがVtuberへのスパチャであるのだ。
僕達が普段議論しているような加害性が何かと言えばつまるところそこに人がいることに問題の根がある。ナンパや恋愛関係における声掛けはどこからが加害であるかは人によって意見が違うけれど、人間存在そのものがややもすると加害であるとすら言えてしまうのだ。この手の議論がなくならない原因はつまりそこに人間がいるからだという身も蓋もない理由だと思っているのだが、逆に言えば人間の存在を排除すればどんなに痛い告白であろうとも加害にはならない。つまりそれがスパチャである。Vtuberへの痛いスパチャが加害行為にならない理由は金を積んでいるからではなく、そこに人間がいないからである。
したがってナンパのように言葉巧みに誘うのではなく相手の裁量に委ねるVtuberとリスナーの関係は正しいものだと言える。無論Vtuberへの高額スパチャは別の意味では狂っているし歪んでいることも否定できないが、それでもなお恋愛関係における「形式として」は正しいのではないだろうか。そんなことを思ってしまった。
ガチ恋勢と呼ばれる人はおそらく本気で推しているし、愛してすらいる。そしてなお加害しないでいるのだ。これはものすごく高潔な態度であり、完璧に正しいものだと言えるであろう。そして同時に狂ってもいる。

正しさと狂気と金が乱れ飛ぶVtuberの配信は一種の亜空間を形成しているのだ。

 

結論としてVtuberは政治的および関係的に正しく、独自の経済圏も成立させているので経済的にも正しい。

無論Vtuberにスパチャをいくら投げようとつまるところ虚無であるのだが、現実がすべてセンチメントに回収された世界においては虚無こそが正しい振る舞いだという、ある種の倒錯的悲喜劇がそこには転がっているのだ。

 

最後に、ホロライブを見て非モテの議論に繋がったのでそれを書いて終わりにしようかなと思います

ゆえんVtuberを見て、そこに流れるリスナーのコメントを読んでいるとなにか僕達は非モテの議論を根本的に誤ってきたのではないだろうかと、そんなことを思ってしまった。
非モテでも弱者男性でもなんでも良いのだけど、非モテはモテへの渇望を抱き苦しんでいる人と解釈される。しかしながら愛されるって本当にそんな大事なことなのだろうかと。ホロライブを見ているとそんな疑念を抱くようになった。彼女達の配信には無駄だとわかっていながらガチ恋する人が少なくない。そして彼らはそれでなんだか楽しそうなのだ。愛されないとわかっていながら高額のスパチャを投げる人を見ていると、結局みんな愛されたいのと同じかそれ以上に愛したかったのではないだろうか。あるいは安心して愛する対象が欲しかったのだろう。痛さをいとわず、全力でポエムを書き、方法論など棚上げして思いの丈を伝えても良い相手。そうした渇望や需要を一手に集めているのがVtuberもといアイドル産業なのだろう。
一般に恋愛は方法論に閉ざされていたりする。コミュニケーションのありかたはもとより初デートではサイゼリヤに行かないみたいなTPOに埋め尽くされている。現実にはそんなことはないのだが観念的にはそうした議論が恋愛の表玄関に飾られている。さらには上述したような加害被害の原則にも注意しなければならず、そこに痛さや欲望を持ち込むと幻滅されてひどい目にあう。そうした恋愛の袋小路を贖うものがVtuberなのだろう。僕達は愛されることなど本来どうでもよく、ただ恋愛の欲望を表出し、全力で愛したかったのではないだろうか。愛されるよりも愛する欲望のほうがややもすると強かったりする。それは経験的にもわかることで、愛される経験はほどほどどうでも良く、どれだけ他者から愛されようと出生時なにもできない状態で育ててくれた両親からの愛情には原理的に敵わない。恋愛における愛されなどその程度のものだとも言えてしまうのだ。それよりも誰かを愛した経験のほうが強く記憶に残る。恋愛とはつまり愛することなのだろう。愛され経験が自己肯定感を形成するのと同じように、誰かが自分の愛と向き合ってくれた記憶が自身の欲望の肯定につながる。その先に相手にその愛情が伝わってほしいという方法論に至る。

しかしいま、僕達は誰かを自由に、無手に愛することができないでいたりする。非モテと呼ばれる人々であればなおさらだ。男性の欲望は客観的には相当に害があるものだと、男性自身が最もよくわかっているけれど、その欲望を向けても良い相手が世界にはいるんだという記憶がつまり全人格的な自己肯定感に繋がるのではないだろうか。非モテはその意味で愛されるよりもただ誰かを愛したかったのだろう。たとえそれがVtuberという虚構であったとしても、である。
ホロライブを見ているとそんな人間的悲哀を感じざるを得ないのだった。