メロンダウト

メロンについて考えるよ

見せかけの青写真と陳列された被害感情

ネット論客として有名な青識亜論氏が複垢なりすましでフェミとアンチフェミの両陣営を演じていたらしい。
2015年に青識氏は「表現規制派のアカウントも持っている」と自身で公言していたみたいなので今更暴露されても彼のポジションは変わらないのだろうが、それにしてもなんたる虚仮さであろうかと驚嘆してしまった。
 
フェミニズムでもアンチフェミニズムでもどちらでもかまわないが、ジェンダーにまつわるイデオロギーは性被害や女性嫌悪といった経験に基づくものであり、その点で愚かさと切っても切り離せないものがある。
女性が性被害に遭って男性嫌悪になりインターネットで差別的言動を繰り返すようになったり、男性が女性に浮気され女性嫌悪になってミソジニーに走ったり、いずれにせよそこには被害感情に基づく人間的な愚かさがある。
現実はあまりに雑多であり、被害感情に飲み込まれることは往々にしてあることで、その愚かさに公共性を持たせるような言論は看過できるものではないとして、バランスを取ってきたのがあるべき言論の姿ではあった。
しかしその愚かさがつくられたものであるとしたらこれほど馬鹿馬鹿しいことはないだろう。
ジェンダーといった人間のセンチメントに根差したものを利用し、自身の言論の肥やしとし、フォロワーを増やして遊ぶための生贄とすることは人の愚かさにたいして失礼であり、フェミニストとミソジニスト双方にたいして礼を逸する行為であると断じて差し支えないであろう。
 
とはいえこうした私の憤りは私が界隈に精通しておらず、青識氏がそういう人物であることを知らなかっただけとも言える。
多くの人は青識氏がもともとそういう人だとわかったうえで「冷静な議論」ができる人と認識しており、「ジェンダー問題を語りながらジェンダー問題に興味がないノンポリ」が支持していたのが実情なのかもしれない。そこにフェミニズム云々というイデオロギーははなっかた無かったのであろう。
結局のところフェミとミソジニーどちらの当事者でもない青識氏のようなノンポリが人の愚かさを相対化の極致に晒し、自身が冷静で正しい側であるという悦に入り遊んでいただけなのであろう。フェミもミソジニーも「言論の具」にされていただけであると。
当人は理性的な分析家と自称しているのかもしれないが、人の愚かさや差別感情を駒にして遊ぶことは一言で言えば不誠実であるのだ。
仮に青識氏が言論をゲームとして捉えることでそこにある種の完全な客観性を実現したとしても、計画された青写真は人の混沌ををないがしろにし、見せかけの極彩色で塗りつぶしたものでしかないため、付き合う必要がない言論だと言えるだろう。
 
とはいえこうした言論ゲームを誰かやっているだろうなとは以前から感じていたのだ。
以下記事でも書いたがジェンダーを取り巻く言論には以前から同様の虚仮さを感じていた。

個人という単位が消滅し、主語が迷子になっているのが今の言論風景であるとも言える。皆が文脈に適応し、役割を演じているとはつまり誰が何を考えているのか本当のところよくわからなくなるということである。インターネットには「誰もそんなこと本気で考えていないだろう」といった疑似性、虚仮さ、違和感が常にあるのだ

 

 
青識氏のような有名なネット論客が本当にただ役割を演じて遊んでいただけであるのだから答え合わせも良いところではある。
 
もちろん青識氏のような例は特殊であり、実際にフェミニズムを支持している人やメンズリブが必要だと考えている人も少なくないと思われるが、論客として表に出てくるのはどちらの当事者でもないゆえに冷静な分析ができる人物であったりする。そして得てして冷静な分析のほうが実際に的を射ていたりするので厄介なのだ。
ジェンダー問題の当事者はどうしたって現実の経験に引きずられ、程度としてその認知がゆがまざるを得ないものだ。被害感情は強烈であり、当事者たる被害者はその被害感情に名前を与え分析してくれる人を求めてしまうことがある。しかしそれをインターネットでやるのはやめたほうが良いと、はっきりそう言うべきだと思うようになった。
もちろんなにか被害にあった時に人に頼ることも大切だけれど、それは友人などの被害感情に寄り添ってくれる人や専門の医師やカウンセラーに頼るべきであって、心地よい分析を与えてくれる人に頼るのはやめたほうが良い。
 
さらに言えば自らの被害感情を簡単に誰かにあけわたさないほうが良い。
個々の人生で得た経験は時に被害として刻まれてしまうものの、それは自分を形成するための財産にもなりえるものでもある。そしてそれは自ら抱えてこそで、その苦しさを後生大事に抱えることでアイデンティティーになり、自己形成に役立つ時がきっとくる。その点で自らの被害感情を告白することで一般化してしまうのはもったいないことでもあるのだ。被害感情を分析家に明け渡し一般化してしまえば一瞬楽になるかもしれない。
しかし被害感情を明け渡した瞬間に自身のアイデンティティーはポリティクスに変換されてしまうことになる。そして果てには集団憐憫のような形を取り連帯が始まることで自身の「大切な被害感情」は政治運動の陳列された一部分へと頽落してしまうのである。
あえて言うけれど被害には価値があるのだ。それを今一度思い出したほうが良いように思う。ましてノンポリの言論の具にしてしまうなんてそんなもったいないことはない。
 
艱難愛惜しむべしなんてそんな古臭いことを言うつもりもないけれど、おざなりな事を言えば苦しい経験は誰かに寄り添う優しさになる時がくるし、それは自らその感情を消化してこそではないか、なんてことを思うのである。
たとえいま被害感情に苦しみ差別的な言説を吐いていてもそれが自身の経験によって得たものであれば、その感情にはきっと意味がある。その点で差別感情のほうが「賢しらなかぎかっこつきの言論」よりもはるかに尊いものなのではないか。
そうした愚かな感情は大切にしたほうが良い。
ましてやなりすましで遊んでいる人に明け渡し、青識氏が用意したような嘘と同列に並べられる商品にその価値を落として良いものではないはずである。