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厚労省のツイートから考える利己主義と弱化男性論

厚生労働省のツイートが物議を醸している。事の経緯としては先日、厚生労働省が自殺対策に関するツイートをしたことに端を発する。そのツイートの中で厚労省は若者、女性、子供への自殺対策が必要と記している一方、中高年男性への言及がなかったため、炎上に発展したようである。

 

けっこうテンプレ的な話ではあるのだが、男性の自殺率について論じられることはあまり多くなく、良い機会なので書いてみようかと思う。
 
いわゆる弱者男性を論じる時、男性の自殺率についてはたびたび話題となり、男性差別の論拠として用いられることがある。事実として統計上、男性の自殺率は女性に比べ毎年二倍近い数字を示している。しかしながら男性がその窮状を訴え声をあげたとしても感情的に寄り添われることは決して多くない。女性に比べると男性の自殺は物語としての引きを持たず、論点や統計でのみ議論の俎上にあげられる。そのため、公的機関により件のような発信が行われた際は積極的にツッコミを入れていく必要があると言えるだろう。
無論、厚労省のツイートは近年女性の自殺率が増加傾向にあるというトレンドから行ったものだと推測できるが、何を問題として取り上げるかという判断基準もといケア基準こそが男性が置かれている状況を表してしまっているようにも見える。
 

・日本の国民性調査と個人的経験

 
男性が感情的に寄り添われにくいとはよく言われることではあるが、それ以前の話としてそもそも日本人は他者にたいするケア意識が低いのではないだろうか。それを示す調査がある。
 
イギリスのチャリティー団体が2018年、144の国を対象に『World giving index(世界寄付指数)』という調査を行っている。この調査では寄付、ボランティア、人助けの3項目を数値化し各国ごとにランキングがつけられている。その結果、日本は先進国で最低の数字だった。
それぞれ「他人を助けたか」では142位、「寄付をしたか」では99位、「ボランティアをしたか」では56位となっている。日本は先進国の中で最も他者を助けた経験が少なく、寄付やボランティア意識も低いというのだ。ただ、ひとつ注意しなければならないのは、この調査における人助け指数は「外国人や見知らぬ人を助けたことがあるか」という聞き方で行われたものである点だ。日本には居住する外国人が少なく治安が良いため、そもそも人を助ける場面に遭遇しにくいという点から、この調査だけで日本人が冷酷だと判断するのは早計だと言える。しかしながら寄付やボランティアの数字も低く出ているため、社会的ケアへの意識という側面から見れば日本人は他者にたいし無関心な傾向にあるという参考程度にはなりそうである。
 
補足的にもうひとつ有名なデータをあげると、2007年にアメリカのピューリサーチセンターが行った調査がある。この調査では「国は貧しい人々の面倒を見るべきか」というアンケートが行われた。その結果、4割の日本人が否定的な回答、つまり国は貧しい人々を助ける必要はないと答えた。これは調査した47ヶ国中最低の数字だった。自己責任社会の論拠としてよく引用されるデータであるが、15年前の調査であるため現在は少々改善されているのかもしれない。
 
いずれの調査にしろ日本人は先進国で最も「他者(stranger)」にたいして冷淡な人々だという結果が出ている。古き良き日本人像を持っている人からすれば日本はおもてなしの国と認識しているかもしれないが、実態とは少々乖離している。おもてなしが行われるのは互助関係や利害関係、それに観光客が主なものであって顔の見えない他者にたいしては自国民であっても関心を持つ人は少ないのだろう。ましてや男性となればその「おもてなされなさ」を強烈に感じてしまう人は少なくない。それが日本の実情ではあるのだろう。
 
こうした調査を裏付けるわけではないがひとつだけ実体験をあげてみる。あくまでも個人的な経験ということを前置きして書くと
昔、職場から帰る途中、男性がうつぶせ気味に倒れていて大丈夫かと思い声をかけたことがあった。口の端から泡のようなものが見えていてお酒で酔ってる状態じゃないなと思い慌てて救急車を呼んだことがあるのだけど、助ける自分を誰も助けてくれなかったことにすこし落胆したことがある。その男性は一見すると寝ているだけのように見えた。しかし近づいて見ると呼吸が浅いうえ、うめき声を発しているし脈も速かったので、大声でお医者さんか看護師さんいませんかと言ったのだが、みな通り過ぎていくだけだった。今考えると単に人通りが少なかっただけというのもあると思うけれど。
結局どうしていいかわからず呼吸ができるようにすこし横向きにして支えるだけであとはそのままにするしかなかった。もっと助けを求めればよかったのかもしれないが、大声で助けを求めそれに誰も応じてくれないのがあんなに堪えるものだとは思わなく、それ以上どうすることもできなかった。情けないことだが緊急事態にもかかわらず羞恥心のようなものもあったと思う。その後、救急車が到着して薬物かなにか(オーバードーズ)ではないかと伝えられ搬送されていった。その後、どうなったのかはわからない。
 
 

・絶望と日常の不通

 
こうした僕個人の経験はn=1であり、国民性にまで敷衍するのが間違っているのは承知している。というよりも僕の経験は少々特殊であり、倒れている人がいれば助ける日本人はかなり多いはずだ。あるいは、上記の統計も日本人には勇気がないというのが主要因ではないかとも思っている。決して日本人が優しくないわけではない。それどころか世界でも秀でて優しい人々だと思っている。
しかし「結果として」他者にたいする社会の無関心さやケア意識の低さがそこかしこに転がっているのは否定できない。n=1を3にしてみると、とび職をしていた人が怪我をして職を転々とするようになったら離婚したり、大学の時に友人(男性)が就活に失敗したら彼女にフラれたみたいな話もあった。弱者もとい弱化した男性にたいしては公助というシステムがあっても実際に助ける人は決して多くはない。むしろ逆に離れていく事例はよくあることだ。そうした人間関係のある種の希薄さが自殺にいたるひとつの原因であることはおよそ間違いない。
 
このような話は思想的にもしばしば言われることである。他者への無関心は利己主義に近い。
他者を目的や必要という枠で捉え、己の利にかなうかという基準で判断することが利己主義であるが、日本社会においては相手との関係、その目的が解除され完全なる他者(己に利さない存在)になった時に初めて他者への無関心という国民性、その非情さが牙を剥くという構図になっているのだろう。
 
もちろん、大前提として書いておくと、極めて重要なのはそういう人ばかりではないことを忘れないことであり、そんなことで絶望してしまうのは勿体ないと考えることではある。
しかしそのようなポジティブな思考を持つことは容易いことではない。統計的にも体感的にもネガティブな国民性(他者への無関心)が一定の説得力を持ってしまっているのが事実である以上、個々の経験からくる失望感を緩和することでポジティブに生きようと唱えても、その影響力はどうしても限定的になってしまう。人の無関心さに触れ関係性を切り離された人にたいし、改めてその関係性を構築しようとすることはやはり難しいことではあるだろう。
そもそも利己主義にアテられ自殺まで考える人の苦しさは、おそらくその時にならないとわからない。自殺というのはどうしようもなく結果論であるように思う。
なぜなら、すくなくとも僕達は普段、誰かしらとの関係の中で生きておりその関係を「利己主義」や「無関心な社会」などと結びつけて考えていないからである。ここでこうして書いていてもどこか非現実的なことのように僕自身感じてしまうぐらいである。僕達はデータを検索したりすることで社会に無関心という牙が存在していることを知っていても、その牙で実際に噛みつかれたわけではない。むしろ利己主義の中で生きるをの当たり前だと思っている。僕達は今ここにいる他者を自明なものとして受け入れ、「利」や「国民性」という小賢しい枠組みは鍵かっこの中に封印し、普段はそんな枠組みによって他者を捉えたりはしていない。それは日常と呼ばれたり、平和と呼ばれたりするが、いずれにせよ日常は利己主義みたいなフィクショナルな観念とは無縁なものに見える。
それは当然なことで、社会が利己的であろうが人間関係が目的的であろうかなんだろうが、僕達は多かれ少なかれ社会に適応し、その一員となることで生きていられる。しかしながら逆を言えば、そんな日常を内面化している僕達にとって、社会から切り離された人の気持ちを理解することは難しいということが言える。利己主義の残酷さというのは人間関係の自明性が根底から瓦解するその瞬間までわかりようがない。つまり、自殺とはやはり結果論なのだ。利己主義の残酷さは利己主義の外側に弾かれることで初めて顕在化する。今まで自明だと思っていた人間関係や社会が裏返るということがある。弱者になったことで離婚したり、フラれたり、路上に放置されるような経験を持ってして初めて今そこにいる他者がどれだけ希薄なのかを突き付けられるのが利己的な社会の特徴なのであろう。
 
 
したがって自殺まで考えるぐらい人間関係に見放されてしまった人にたいしどれだけポジティブな言葉をかけようとも、それが「こちら側の枠組みを前提に発する言葉」である以上、その言葉の射程はやはり限定的だと言わざるを得ない。こちら側(利己主義の側)からできることは、あなたが生きていることは私の「利」になると伝えること、つまり「私はあなたに生きてほしい」と言う他にないのだろう。そうでなければどうしても欺瞞的にならざるを得ないように思う。たとえば「あなたには生きている価値がある」とか「生きていれば良いことがある」というようなことを言えば、自殺を考えるほど人間関係への信頼を失った人からすれば「また私とは関係せず切り離すのか」と瞬時に見抜かれるはずだ。それが利己主義によって社会から弾かれた人にかかる呪いのようなものなのだと思う。
そうした言葉の不通、コミュニケーションの断絶こそが他者を他者として切り離す快適な社会の代償なのだろうと、そのように思うことがある。
 
 
 

・男性と女性の社会観の違いは自殺率と相関があるのか

 
いずれにせよ日本人の他者にたいする無関心、ケア意識の低さは問題がある。
そしてその無関心もとい切断処理が向けられる場面は男性のほうが多い。倒れている女性がいれば男性よりも多くの人が心配するように、男性と女性の助けられやすさには明らかな差異が存在している。男性にしか見えない「総体的社会観」は確かにある。逆に、男性は多くの女性が痴漢被害にあっていることを知らない。男性と女性では「経験則としての社会観」がそもそも違うのだろう。
女性の場合には歪な関心(性被害など)が向けられがちで、男性の場合には無関心が向けられる度合いが高い。同じ社会に住んでいても違う種類の視線を向けられる(向けられない)ことで、どう社会を捉えるかというその概念にはズレが出てくる。つまり、男女平等とはよく言われるものの、何を社会として認識しうるのかという「経験の与えられ方は平等ではない」という前提から男女の自殺率の違いは考えるべきではないだろうか。以上の点から男性と女性におけるn=1への遭遇率の違いと自殺率の相関は少なからずあるように思える。
男性の場合、人に助けを求めた時に救急車(公助や専門機関)以外応えてくれないみたいな場面は日本社会ではよくある光景だ。無関心にアテられるということが社会には存在しており、それは男性に向けられることが多い。逆に女性の場合には歪な関心、時には悪と断定せざるを得ないような暴力を向けられることが多いと見聞きする。
しかし、当然ながら性別の差異だけで語れるものではなく、グラデーションも存在している。男性が社会にアテられるように女性が社会にアテられるということも当然ある。
というのも昨今では女性も社会と無関係ではない。社会にアテられるのは近年自殺率が増加傾向にある女性にも同様に降りかかっている事態であり、女性の社会進出と自殺率の増加は決して無関係ではないように見える。今まで女性は家庭の中で生活することが多く、社会とはよくも悪くも距離を取っていた。しかしながら近年は共働きが当たり前になり女性にも経済力が要求されるようになると、女性も社会との接点が増えることとなった。その結果、女性の自殺率は男性の自殺率に近付いていくようになったと考えられる。女性の自殺率は増えているよりも近づいているというほうがいくらか正確な気がしている。
 

・まとめ

 
統計から見える他者にたいし無関心な日本社会、その一端(n=1)に触れた時、なにがしかの反応が人間には起きる。その「反応が起きる数」は女性に比べ男性のほうが多く、そして諸外国に比べ日本のほうが多い。
大声で助けを求めても「あ、誰も助けてくれないんだ」と瞬間的に悟る経験を重ねれば、それ自体はとるに足らなくとも、その一端が全体となり、人によっては社会にたいしある種の諦観や分別を持ってしまう。経験・統計・不運その他の積み重ねの結果、見知らぬ他者との連携・共助という概念が気づいたら消滅しており、いざ「そういう時(自殺を考えた時)」となったら自助と公助以外に選択肢がなく、思考回路がスタックし袋小路に陥るというのが、日本人が自殺に至るまでのひとつの特徴的な機序ではないかと考えられる。具体的な経験の積み重ね、統計から見える国民性、そしてマチズモなどの自浄自縛的観念、それらの要素が堆積し、死にたいのに泣けないような状態になり、少なくない男性が「黙って自殺する」のだ。そしてその沈黙を醸成するのは日々の生活における小さな失望(n=1)の積み重ねではないだろうか。
経験上、声をあげた時に誰も助けてくれない時の失望は強烈だ。それがたとえn=1であろうとも、である。したがってその「1」を生まないように注意して生活することが、男性のみならず女性の自殺率をも改善するための、まさに一助ではないかと、個人的には思うのだ。無論、それはとんでもなく難しいことではある。しかし無関心を装い何もしないということが巡り巡って誰かに小さな失望を植え付けることがある。
その誰かの絶望の芽にならないように生きていきたいものである・・・・せめても、せめてもである。
 
 
※自殺に関する議論は複雑で、単に社会が悪いと一概に言えたものではないとは思います。この記事は読み方によっては自殺が起きるのは「社会が悪い」と書いているようにも読めるけれど、もちろんそれだけで解決するほど甘い問題ではないはず。助けるという観点と同様に「死なない勇気」のような実存に踏み込んだ議論も必要になってくると思うけれど、僕には手に余るのでご容赦願いたい。