メロンダウト

メロンについて考えるよ

「社会は複雑である」という言葉の空虚さについて

積んでいる本が多すぎて来年は読書しようかなと思っているのですが、この前、本棚を整理していたら『この世界が終わったあとの文明のつくり方』という本を読んだことを思い出しました。

少年ジャンプで連載していたドクターストーンの元になったと言われている本なのですが、文明が崩壊したあとにどうやって今の社会を再起動するかについて書かれています。工業・農業・医療などけっこう広範な分野にわたり具体的な解説がされており、正直言って理解が追い付かないところが多々あったのですが、個人的に印象に残っているのが冒頭に「今の社会は複雑になりすぎて皆が専門性に閉じられている」と書かれていたことでした。

たとえば「紙」や「本」を考えてみても、木を伐採する業者がいて、パルプ業者がいて、印刷業者がいて、出版社がいて、製本され物流に乗せられ消費者に届くといったプロセスがあります。しかし出版社に勤めてる人は木を伐採する技術は持っておらず、逆に林業に勤めている人は自分が切った木が何になるのかは知る由がありません。それぞれがそれぞれの専門に閉じられていて、0から本を作り出すことができる能力を持った人はほとんどいません。医療や自動車産業などのもっと複雑な産業にいたってはなおさらだと思います。

実際に「この世界が終わったあとの文明のつくり方」の書評を読んでみても、私のように理解するのが困難だったという書評が散見されます。歯科治療における神経が云々みたいな話も出てくるのですが、はっきり言って何を言っているのかまったくわかりませんでした笑

 

さておき社会が複雑であるとはよく言われるのですが、文系的には「複雑」という言葉はけっこう単純なフレーズとして消費されがちで、事実上何も言っていないみたいな話になりがちだと、この本を読んだ時に思ったのです。

今の社会は皆が専門性の中で己の職分を全うするということになっている点で「多分化専門社会」とも呼べると思うのですが、このような状況だと同じ業界内であってもすこし遠い職分になると何をしているのかよくわからなくなり、結局のところ業界内の評判で判断し仕事を「任せるしかない」ということになると思うのですが、この任せるというのが厄介で、事実上の切断処理のようになってしまっているのが現状だと思います。

実際、ひとつ例をあげるとすこし前に問題になったウィグルの例がありました。ファストファッションが巨大市場になり、企業は安価な労働力と繊維を求め中国に進出したのは良いのですが、ウィグルでは過酷な労働に従事させられている人がいる点から人権問題となりました。サプライチェーンを広げ、どこで何をやっているかわからなくなると、労働が分散すると共に責任も分散して「知らなかった」ということになってしまいます。

このような現象は経済学的に言えば「比較優位の罠」とも呼べそうですが、つまり社会が複雑になり、皆が専門に閉じられ、適材適所の比較優位が市場全体を覆うと、目が届かないどころか何をしているのかすらよくわからなくなり、「後の祭り」にしかならない、ということになりがちなのだと思います。

他にも直近の例で言えば、カタールワールドカップの移民労働者がレイバーキャンプに押し込まれていたこともありましたが、この件が話題になったのも去年で、後の祭りでした。

 

 

何が言いたいかというと、世界は複雑だという言葉の説得力は日に日に増している一方、世界が複雑になりすぎてもはや個々人の認識では負いきれる範囲を超えており、複雑さを射程に捉えることが不可能になってしまった世界においては、世界が複雑だと言ったところで本質的には意味がないのではないか、ということです。これだけ高度に文明化し、専門が分化した世界では、世界は複雑だと言ったところでそれは政治的に響くだけで、その響きの射程(現実)は雲のかなたにいってしまっています。

複雑という言葉の空虚さをどうやって現実に引き戻すか、みたいなことがけっこう大きなテーマになりうるのかなと思うのですが、本棚を整理していたら浮かんだただのtipsなので結論のようなものはないです笑

誰か考えてください(任)

 

※ところで、ためしに敬体で書いています