メロンダウト

メロンについて考えるよ

ぼっち・ざ・ろっくのリアリティーについて

ぼっち・ざ・ろっくを全話視聴した。コミュ障陰キャ女子高生がバンドを組んで文化祭でライブするまでの物語だ。

最初に持った感想は「ロッキンオン読者から批判されそう」だった。ぼっちちゃんの承認に飢えてる感じはカートコバーンが忌避した資本主義的消費構造そのものだったので、オールドロックファンからはなんか怒られそうだなと思ってしまった。今やロックも資本主義に包摂されているのでそういう感覚を持つ人もいないのだろうけど。

 

あとはぼっちちゃんのあの暖かい家庭をつくった両親が娘に「ひとり」という名前を付けたのはけっこうなホラーなのではと思ってしまった。冷静に考えたらものすごく怖い。はっきり両親もロックに傾倒してると言ってくれれば娘に「ひとり」という名前をつけるのも腑に落ちなくもないのだが作中では父親がギターを持っていたという描写しかされておらず、母親にいたっては理想的なママでしかなかった。それがある意味で怖かった。

 

作品そのものは大変面白かった。

ぼっちちゃんの七転八倒ぶりはもちろん、バンドメンバーやぼっちちゃんを取り巻く人々も一癖ふたくせあって目が離せない。社会的に見れば全員がどこか欠落してる部分を抱えているけれどそれでも全体としてみれば優しく笑いが絶えない空間を形成している。虚言癖、アル中、コミュ障などの欠落性を抱えながら誰もその欠点にたいして嫌味は言わず、欠落を悲劇としてではなく喜劇として日常に組み込んでいく。その奇妙な調和がボッチ・ザ・ロックの最も視るべきポイントなのは間違いなさそうである。もちろん現実にはボッチちゃんほどのコミュ障は社会適応が難しくなり喜劇にはならないとか、喜多ちゃんの虚言は信用を損なうので友達を失くしてしまうとか、きくりの飲み方は完全にアル中で立ってすらいられないはずだとか、いろいろリアリズム的にツッコむことはできるけれど、そういう見方をするのも野暮なのではと思える作品だった。そしてなんかそれがアニメやフィクションの力なのだろうなと。現実を描いている作品も面白いけれど、現実にたいして全然別の解釈や可能性を与え開いてくれる作品、それがぼっち・ざ・ろっくなのだろう。

僕たちの現実はある種の定義づけやキャラクター、または一貫性に囚われている。アル中はこうだとか、嘘をつく人は悪いといったものだ。けれど、実はその解釈自体が自明ではなく全然別の世界が外側にあるかもしれないという希望を与えてくれるがぼっち・ざ・ろっくなのであろう。

現実の人間には肉体的・精神的限界があり、きくりちゃんほどのペースで酒を飲めば生活がままならなくなりお陀仏である。なのできくりちゃんになろうと思うのは危険なのだが、きくりちゃんもといアル中の面白さみたいなものに僕達が惹きつけられることもまた事実である。リアリティーがないほうがむしろリアルに見えるのが今の時代の特徴なのかもしれない。

悪い癖だが社会的な話にしてしまうと戦後高度経済成長期は「理想の時代」と呼ばれ、その後のオウム真理教や終末論にフェイクニュースが流行る時代を「虚構の時代」と呼ぶことがあるそうだ。リアルとフェイクがシームレスになりリアルが消滅するみたいなよくわからない話ではあるが、近代になりインフラが整備され社会が過剰に現実化され僕達の前に立ち塞がった時には虚構のほうが相対的にリアリティーを増してくるようになる。

上述したようにぼっち・ざ・ろっくの登場人物はアル中、虚言壁、コミュ障、社会不安など社会通念上ではあまり現実に適応している人間と言えないところがある。なのでリアリティーがないといえばそれはそうである。しかしながら当然、現実でも少なくない人々は虚言、酒、コミュ障といった難しさを抱えておりそれでも自らを肯定するしかない現実を生きている。そして社会がその難しさを引き受けなくなった時、その難しさを引き受ける虚構が新たな現実として立ち現れてくるのだろう。そのアンビバレンスを感じずにはいられなかった。

つまるところボッチ・ザ・ロックにはリアリティーがないと同時にリアルよりもリアルな作品だったのだが、それを喜劇として提示されるともはやまるごと笑って肯定するしかなかった。

 

もちろんそんなめんどくさいことを考えずに見ても大変楽しい作品なのでおすすめです。ぼっちちゃんは単純にかわいいですしね。