メロンダウト

メロンについて考えるよ

度が過ぎた公共性の反転現象

巷では「異次元の少子化対策」について喧々諤々議論がなされていて、いろいろな記事を斜め読みしてはいるのだがどうも何か書く気になれないでいる。今に限ったことではないのだが、定期的に時代にたいする情動が停滞する時がある。平たく言えばどうでもよくなってしまう。時勢や話題が滔滔と流れていくだけで、現実的には何も変わらないのだろうなと、諦観や厭世観のほうが先にきてしまうような感覚がある。しかし不思議なもので得てして「そういう時」のほうが文章が書けてしまう。書こうと思うと書けず、別に書きたくないと思っているほうが書ける。ブロガーあるある、ですかね。

 

 

今のテンションを利用して散文的に世評めいたことを書くと、議論になっている少子化ってもう社会構造がそうなっているのだから根本的に解決するのは難しいだろうなと思っている。

子供に限らず、一般社会で他者にたいし望むべく姿を考えてみても、もう随分前から社会の承認構造は人にたいし「無害性」を求めているように見える。純社会的に考えた場合、社会で求められる人物像は「無色透明で、かつ闊達な人物」であるように見受けられる。全人的にSNSが普及し、すべての人間の素行がインターネットを駆け巡るような時代になると個人の雑多な性格がリスク要因になるため、社会は個人に無色透明な人物を求めるようになっていく。企業もまた、そうした社会構造のシステムに乗り、能力的には優秀だが性格的には無色透明な人材を求めるようになる。時に政治的であることすら烙印になりつつある。そしてそのような人間が量産されていくと社会も穏やかになっていき静かになるため、その静謐を犯すような人間ーーーつまりは子供ーーーを望まないような環境になっていく。

社会が静かになるとはつまり「夜」になると言い換えることもできるが、夜になり外で騒いでいる人がいれば昼間のそれよりもはるかに迷惑だと感じやすい。静けさとそこで巻き起こる神経症的な申し立てはトレードオフであるため、社会を静かにすればするほど妙な行動をする人間から受ける実質的被害は大きくなっていく。そのような構図が生まれる。

すこし具体的に言えば、体感治安が例としてはわかりやすい。近年では刑法犯の数が減り続けている(2022年は微増)が、他方では治安が悪くなっていると感じる意見が少なくない。こうした矛盾を生んでいるのはこちら側が神経質になったことで社会にたいする要求水準が上がるようになったからであろう。スシローペロペロ事件のような一見するとどうでもいい騒動が時に爆炎を上げるのはあちら側の悪の問題ではなくこちら側が他者にたいし想定する道徳性の高さに由来する部分が少なくない。アンテナがピーキーになりすぎて受信感度の高い社会になったことで昔であればスルーされていたであろう愚かな行動も見過ごせない蛮行として糾弾されるようになっていく、といった構図がある。

先日もテレビで「原付が歩道を走っているだけの動画」が報道されていたが、ああいうのもYoutubeに流され悪人として叩かれるのであれば、どうして何をするかわからない子供を生むことができるのであろうか。そして、なぜそうした社会の構造を問題視せずお金を配れば少子化対策ができると思えるのか不思議でならない。断言しても良いけれどお金を配って増える子供の数は極めて限定的である。夫婦あたりの子供の数はそれほど変わっていないことからもわかるように、少子化とは非婚化のことであり、その背景には他者にたいし侵入することができないような個人主義をベースにした公共空間の蓋然性があり、それが恋愛にたいし蓋をしてしまっている。とりわけ出産適齢期の男女は感受性も高く公共性の影響を受けやすいため、彼ら彼女らが「蓋」を被ってしまえば少子化にとっては致命的となる。

 

異次元の少子化対策と言うが、異次元の話をする前に現実の公共空間から弾力性が失われたことがそもそもの問題であるように僕には見えてしまう。子供を生んでも「弾力性無き公共性」に囲い込まれることは目に見えており、であるのならばその公共性を破り超克しうるような優秀な個人が優秀な子供を生むというサイクルの中でしか子供を生むことができないことになり、実際にそのようになっているのが今の社会もとい東京である。もしくは、そのような都市部的公共性から離れた沖縄のような場所でなければ子供は産まれなくなっている、といった認識でおよそ間違いないであろう。

 

公共空間が静かになることで起きる弊害は「静かになったことで迷惑な他人を許せなくなる」がひとつあるが、さらに言えば、そのような静かな状態だと人々がロールプレイに縛られていくことになるのが最も厄介な問題である。

たとえば、電車内で歌を歌うとする。海外ではしばしば見受けられる光景であるが、日本では奇異な眼差しを向けられる。社会的視座が違うため、社会的圧力が違う。言い換えれば社会性を逸脱する難易度が違う。日本人は電車内では電車で運ばれるだけの物体となっている。実質的には歌を歌うことはできない。電車という公共空間が人間の行動を限定することで人が貨物化されているからである。公共性も度が過ぎると人がそこにいるのではなく場所が持つ目的性(アーキテクチャー)に人が縛られていくといった逆転現象が起きてくる。さながら呪術回線の領域展開で必中効果が発動しているような状態になり、そこでは皆が対抗手段として簡易領域を展開するように、小さな私的空間、つまりはスマホに逃げ込むようになるのである。

 

電車内であればたいした問題ではないが、では、公共空間が持つ無形の圧力を恋愛のような時に社会性を逸脱しなければできない行為へと広げて考えてみるとどうであろうか。異性に声をかけるような場面でも「望むべく姿」や「望むべく収入」や「あるべき姿」といったフィルターにかけられ、あまつさえそれが公共性として機能し、望むべく状態でなければ異性に声をかけることすら迷惑だとされかねないような状態になっているのが現在の恋愛市場だと、一部の人の目にはそのように見えても不思議ではない。無論、そうした観念は外部から見たものでしかないし、実際にはまだまだ恋愛は多様ではあると思うが、非モテと呼ばれる人々が収入による婚姻率の違いなどを見た時、「年収○○万」でなければ女性とはマッチングできないのだと事前的に恋愛を諦めてしまってもおかしくはない。つまり、恋愛のあれこれを俯瞰した時、人はその公共性・客観性を事前に内面化してしまうことがあるということだ。仮にこれを内面的公共性と呼べば、内面的公共性を持っている人にとっての恋愛は電車で歌を歌うのと同じくらいの「難易度」と感ぜられてもおかしくはないであろう。

 

ようするに電車でも街中でも公共空間は静けさを前提にデザインされているが、そのような状況では静けさを破ることが難しくなり、その公共性に阿る形でみなが適正な振る舞いを行うようなロールプレイに縛られていくことになる。

かつてのように常磐線で酒を飲んで宴会しているような人は見なくなった。公共空間においてはみながその場所の公共性に縛られることで目に見える多様性は失われていき、多様性の時代と言われながら現実的にはむしろこのうえないほど一様になってきているように見える。

そして、社会が静かになったことでデモやストライキといった政治的訴えをする人も奇異の目に晒されるようになり、少なくなっていった。しかしながら静かにしているだけで現状が変わることはないので、代替手段としてインターネットでハッシュタグデモなどをやるしかなくなったというのが今の状況なのであろう。公共空間から弾力性が奪われ自由が制限されれば、現実に声を上げたり歌を歌ったり恋愛することが不可能になるため、別角度から切り込むためにインターネットの声を現実へ近づけていくといった方法しか取れなくなったのである。そのように、公共空間がスタックすると、本来はフィクショナルなインターネットのほうにこそ人々は現実を見るようになるといった倒錯構造が生まれる。公共性に縛られた現実のたちゆかなさに比すればインターネットのほうがより自由であるため、インターネットというオルタナティブのほうにこそ人々はアイデンティティーを見出すようになる。そこで自らの悩みを打ち明けたりして仲間(フォロワー)と繋がるようになっていく。ついには現実が無用の長物となり、現実的権威・地位は犬儒主義の餌食となる。以上のようにインターネットのプレゼンスが高まっていくと現実の公共空間がどうなるかなどもはやどうでもよくなるため、行き過ぎた公共性を逆に鉞として利用し、炎上という一時の快楽に耽溺するようにもなっていく。インターネットで倫理を振りかざしている人は社会を倫理的にするために倫理を振りかざしているのではなく、現実が死に体となったことでいくら殴っても問題ではないと暗に思っているからなのであろう。つまるところ「死体蹴り」であるが、死体を蹴ったところでそこに倫理的問題は生じないし、ましてや勝敗がついた(現実が負けた)後であれば、殴ろうが殺そうがキャンセルしようが、もはや、どうでもよいのである。

 

ようするに現実から自由が失われ皆が公共的ロールプレイに縛られるようになると現実がどうなろうとどうでもよくなるため、現実の地位そのものが簒奪され、インターネット上のスケール競争のための道具になりさがっていく。

すこし前に通説となっていたのが「日本社会には閉塞感がある」といった言説であるが、もはや閉塞感が当たり前になったことによって人々は現実にたいし「醒めた距離感」を取るようになっていった。ひろゆきのような冷笑的言説が大流行しているのが象徴的であるが、世代間闘争などももはや現実の問題ではなく言論ゲームの様相を呈している。恋愛のような実存的問題もそれ自体を棄却すれば良いといった形でもはや現実を問題にすらしていない、といった印象がある.。MGTOW・寝そべり族・サイレントテロルといった形で社会・現実・恋愛から降り始めている人は少なくない。その数はこれからも増えていくだろう。

個人的に、数年前まではそうした社会の醒めた感じにたいし疑義を呈していたが、最近は僕ももうどうでもよくなりつつある。いや、もちろん、インターネットで炎上に加担するようなことはしないし現実がどうでもよくなったわけではないのだが・・・個人的なことはともかく社会全体に関しては「なるようになった」というだけのことなのだろうな、といった醒めた感覚を持っていることに関しては、僕も「彼ら」となんら変わることはないように思う。