メロンダウト

メロンについて考えるよ

残された当為とテロリズム

またか・・・思わずそう呟いてしまった。

4月15日土曜日、和歌山県の漁港へ演説に訪れていた岸田首相にたいし聴衆の一人が銀色の物体を投げつけ、直後に爆発音がするというテロ未遂事件があった。幸いにも首相は無事でけが人も確認されていないということだが、選挙演説中の襲撃というと安倍元首相が亡くなられた昨年の事件を思い起こさずにはいられない。

犯人の動機についてはまだ何もわかっていないが、選挙演説中の襲撃という点から見て昨年の事件の模倣犯である可能性がかなり高そうである。とはいえまだ何もわかっていないので具体的なことに関しては続報を待ってから判断したいところではある。

 

気になったのが事件発生直後から「今回の事件が起きた原因(遠因)は安倍元首相を襲撃した山上を肯定した結果だ」という論調が各所で見られることだ。

 

 

[B! 事件] 【速報中】岸田首相の演説直前に爆発音 首相は無事 容疑者逮捕 | NHK

 

【速報中】岸田首相の演説直前に爆発音 首相は無事 容疑者逮捕 | NHK

山上を持ち上げた人達こそがこういう模倣犯のような物を生み出してると思う。暴力で訴える政権批判は支持できない。

2023/04/15 12:15

b.hatena.ne.jp

 

このような批判は昨年の事件以来ずっと言われてきた。暴力による現状変更を肯定するのであれば必ず模倣犯が出てくることになるというものだ。

テロを擁護するような言論の機能的弊害については警戒すべきであるが、かといって犯人の生い立ちや動機に踏み込まなければ事件が起きた背景について知ることができないのも事実だ。

「事件が起きた背景をまるごと無視し、テロによって現状変更することは認められない」とだけ唱えることはテロが起きた土壌をそのまま温存することになり、それはそれで危険である。なぜなら、昨年の事件を振り返った時、仮に山上にたいしなんらの同情も寄せず統一教会の問題を報道することなく放置していれば同種の自力救済(統一教会絡みの事件)が起きる可能性だってあったからだ。

 

山上のテロを否定すれば統一教会の問題は温存されたままとなっていた。そしてテロを(部分的にせよ)肯定することは模倣犯を生んでしまう危険がある。

どちらにせよ弊害を伴う。ならばテロを否定しながらも犯人の背景に踏み込み、問題があればそれを正していくという方法しか残されていないのではないだろうか。

 

 

こうした「枕詞批判」も当時からよく言われていた。

「テロは許されることではないが」

この枕詞はあまり肯定的に捉えられていないけれど個人的にはそうは思わない。テロは許されることではないという前提で事件が起きた背景に踏み込んでいく「しか残されていない」からである。

テロは起きたことが全てであり、もう元には戻れない。ましてや「なかったこと」にはできない。なんらかの「機能」を生んでしまうのがテロルであり、それについて賛否を述べることはおしなべて結果論にしかならないのだ。あの時に山上を全否定していたとすれば統一教会の問題が解消されることはなく同じテロが繰り返される可能性があったし、一部の信者がしているように山上を烈士などと呼び肯定すれば模倣犯を生む可能性がある。もしくは、テロリストがそのようなこちらが考える計算の内に収まるとも限らず、テロを否定した時により大きな反発が起きる可能性だってある。

そのようなどちらに転ぶかわからない言論の正当性を論ずることに意味はなく、あの時あの瞬間、テロを肯定するか否定するかという選択を突き付けられたことそのものがテロの要諦であり、あの時点でどうあれ社会は分岐したのだ。その戦慄を共有する必要がまずあるように思う。

今回のような模倣犯が出て「あの時の言論が次の事件を起こした」と言うのと、統一教会絡みの事件が連鎖し「あの時の沈黙が次の事件を起こした」と言うのは等価であり、言葉の正当性を後天的に論証しているに過ぎず、結果論でしかない

沈黙や否定といった不作為も作為のうちであり、テロを肯定するのも否定するのも先験的には「同じ」なのである。ならば「残された当為」について考えるしかない。それがあるべき議論なのではないか、なんてことを思う。

 

振り返るに山上が起こしたテロは単純に善悪で分けられるものではなかった。どうしても錯綜した議論にならざるを得ない(事実、事件当時はみな混乱していたように思う)。その際に出てくる部分的同情論が模倣犯を生む可能性がある。その効果を極小化しながらも同時に具体的問題に対処していくのが当為ではないか、と考えている。そしてその前提を考えればやはり「テロは許されることではないが」という枕詞は必要であろう。むしろ枕詞無しの肯定や否定こそが危ういのではないか。

 

ごく一般に、テロは僕たちが平和に生きているその前提を破壊する行為であり、許されることではない。しかしそのテロの声を聞かないこともまた対話を拒否するという意味で民主主義の否定なのである。殺人という行為は拒否し声は聞く。それが民主主義に残された方法なのではないか。民主主義を否定する声もまた民主主義の内で聞く必要がある。そのようなジレンマと付き合っていくしかない。何が正しいかという議論になれば山上のほうにだって一定の正当性があることは今となれば明らかであるが、それでもなお殺人は悪であり、その行為を罰する機能が民主主義には残されている。その残された機能、法という当為と、そしてどのような声だって聞く対話の姿勢がかろうじて民主主義に残されたよすがなのである。

そのよすが、対話を拒否することをこそ拒否すべきだと、個人的には思っている。

 

なにはともあれ岸田首相が無事で良かった。二年連続で首相経験者が亡くなるなんてことになってたら、考えるだけで恐ろしい・・・