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社会保険料と社会的攪拌~少子化対策のジレンマについて~

岸田首相が少子化対策の財源として社会保険料をひきあげることを検討しているようだ。

 

少子化対策を行うには財源を確保しなければならず、税金を引き上げるか国債を発行する他を削るかになる。そのうち社会保険料を引き上げるのが子育て世帯から最も厚く取れるということなのだろう。

少子化対策はもうなりふり構わず実行してほしいと個人的には思っていて社会保険料も上げれば良いと思っているのだが、他方でどこから財源を確保したとしても実質的には独身税となることも忘れてはならないように思う。

 

有配偶者だけから財源を確保することは事実上不可能であるため、どうしたって独身者から子供へ再分配する形になるが、日本社会の現状を考えるにそもそも資本格差によって婚姻率が違うことからしてすでに分断があるため、「なぜ自分は結婚できないのに他人の子供を援助しなければならないのか」という意見が必ず出てくることになる。というかインターネットではそうした意見がすでに散見される。

スープストックトーキョーの件などは典型的だろう。

togetter.com

 

はしごたんの時代、である(わかる人にはわかる)

しかしこのような「お一人様」の主張は少子化対策が急務となった現代においてはむしろ正しくない側として糾弾されていたりするが、はたしてそう単純に捉えて良いものなのだろうかとも思ってしまう。独身者の独身性を切断処理して少子化を考えることはなにか致命的な落とし穴があるような気がしてならないのだ。

 

そもそも現代における結婚とは何かを考えるに、今の時代、バリキャリで仕事ばかりして結婚していない人はむしろ特殊で、資本と婚姻率には明らかな相関がある。昭和のような貧乏大家族世帯はいまやほとんどなく、個人の属性は単線的になっており貧乏であれば子供を産めないケースがほとんどだ。いわゆる「リベラル的なお一人様至上主義」は結果にたいする鎮静剤でしかなく、失われた30年・氷河期・リーマンショックなどの現実的問題が先にあり、それが少子化を加速させ、そのような厳しい時代状況から資本と婚姻がその結びつきを強めお金を持っている人が結婚し子供を持っているのが現状だ。そのため、少子化対策を行えば資本を持っていない独身者が資本を持つ既婚者へと税金を通じて援助する構図になることは避けられない。

こうした現実的格差や分断にたいしてよく聞かれるのが「子供を社会全体で育てよう」という理念だが、現実的問題にたいし理念によって蓋をするのはやめたほうが良いように思う。

というよりも、最大の少子化対策は未婚の人が結婚することであるため、結婚している側に正しさを委譲することはむしろ少子化を悪化させる気がしてならない。

 

 

政府にとって少子化対策が急務なのはわかるが、現代において厄介なのは資本と婚姻率が比例していることにある。平たく言えばお金を持っている人や安定した職業に就いている人は結婚している(公務員はおよそ7割が既婚、非正規雇用者はおよそ6割が未婚)

このような状態だと国家による再分配の正当性は失われる。皆が貧乏大家族やシングルマザーで子育てに困っているのであれば再分配するのもやぶさかではないと考える独身者が多いと思うけれど、子育てが贅沢と認識されかねない今の時代において子育てへの再分配は逆進税として捉えられかねない。経済的なことだけでなく国民の内的な感情に目を向けてみてもそうで、少子化対策のような有配偶か否かという問題は自身の実存的問題に直で接続されるため、「なぜ他人の子供を援助しなければならないのか」という嫉妬感情を想起させやすい。

ずいぶん前からこのような独身者と既婚者の分断は言われているが、以前であれば必ずしもその限りではなかったはずだ。昔であれば「清貧」や「お金がなくても幸せ」といったライフスタイルがあったと見聞きするし、貧乏でも子供を持って「ムラ」や「イエ」で育てることができたからだ。家族(生活世界)と経済(資本主義世界)は空間的に別であり、今ほどの相関はなかった。しかし現代のように核家族が基本単位となったことで資本と婚姻率(お金と実存)が直結する社会になると実存を切り離して生活を構築、つまり結婚するのはある種の夢物語となっている。イエというメンバーシップから共働きというパートナーシップへと家族の形は変わり、パートナーシップでは稼得能力やマルチタスク能力といったものが求められその条件に適う優秀な人が結婚するが、政治的に見ればそうした「優秀者の貧困」にたいして再分配することに正当性はない。それが現代における少子化対策のジレンマとなっている。政府が最近になって少子化対策に本腰を入れるようになったのも既婚者への再分配には正当性がないことがわかっていたからという理由もあるだろう。

 

 

 

こうした社会において何が最も大きな問題かと言えば「愛と金を切り離せなくなった」ことにある。

愛と金を切り離せなくなると誰かにお金を支払う(再分配する)ことに実存的な意味が生じる。自分は独身で働いて税金を納めても社会福祉子育て支援に回されるだけで、職場でも育休を取った人の穴埋めに奔走するようなことになるが、しかしそれでも金は金であり自身の幸福に関してそれほど関係がないということであれば「彼」は他者にたいし時間や金銭を援助することもやぶさかではないと考えるかもしれない。もしくはかつてのように金は天下の回りものという価値観が社会にあれば今この瞬間の「損」を取ることだってできただろう。ようするにお金を幸福や愛から切り離すことができれば再分配の正当性を語る必要すらないのである。なぜなら、「金は金でしかない」と考えることができるからだ。

しかしながら収入や貯蓄などの要素が幸福や婚姻率と連結するような状態になると幸福とはリソースの奪い合いのようなものだと考え、そうした再配分にたいして躊躇を生んでしまう。

「自身が幸福になるために持っているリソースをできるだけ譲ってはならない」

それが愛と金の差異がなくなった時代における幸福論だと、そのように考える人が出てきても不思議ではない。

 

 

そもそも政府による再分配が正当性を持つ時にはそこに現実的妥当性がある時であり、恵まれた人は困っている人を助けるという人間の利他心に立脚している部分が大きい。誰かを助けることは社会のためにもなるし、それは巡り巡って自身のためにもなるという大前提があり、それが国家を支えている礎と言えると思うけれど、現在の少子化問題はそうした「恵まれた者が弱者を助ける」という利他構造から外れてしまうのである。それどころかむしろ格差を加速させようとすら見えても不思議ではない。

 

そこで持ってくるのが「理念」である。再分配としての正当性はもはや少子化対策にはないため、社会全体で子供を育てようという抽象度を上げた話へと昇華してその妥当性を説くのである。

しかしこの「子供を社会全体で育てよう」という理念にも矛盾がないわけではない。というのも、子供を大事に育てようという考えがいまや支配的になっているため子供へのセキュリティーが以前とは比較にならないほど高まっており「そこらへんの子供」と「そこらへんの大人」が関係しあうことはほとんど不可能になっているからだ。街中で子供に話しかけたりすれば事案として処理されるし、公園に座っているだけで通報されたりと子育てが聖域化しており、純粋な意味での他人、つまり社会が子どもと触れる機会は排除されつつあるのが今の社会であり、こうした社会環境は「子供を社会全体で育てよう」という理念とは決定的に矛盾する。

実質的に言えば日本社会は「他人の子供を社会の子供として扱ってはいない」、それどころか大人(ストレンジャー)は他人の子供と関係してはいけないとすら言えるだろう。社会(他人)は税金を通じて間接的に援助するだけに留まっており、そのような状態では「社会全体で子供を育てよう」という崇高な理念は実質を持たないどころか欺瞞的だとすら言える。

本当の意味で「社会全体で子供を育てよう」というのであれば他人と子供が関係する必要がある。そうすれば再分配にも正当性があると考える独身者が増えるし、また、子供を持たない人も子供と触れあうことで自身も子供を持ちたいという動機付けになる効果が期待でき、そうして生まれた子供がまた別の他人の動機付けとなると同時に将来的には成長して納税者となることで再分配の担い手となって循環していくのが社会が巡るということなのだと思う。当の子供にとってみてもわけのわからない他人との第三者的空間は貴重なもので、家族や教育現場から与えられるものとは違う機能、つまりは情緒や原風景的な多様性感覚を獲得することが期待できる。

スープストックトーキョーの件で見られるようなリベラルが言う「うるさい子供を近づけるな」という主張も間違っているし、子供を他人に近づけてはならないという子育て世代の主張も間違っている。

社会全体で子供を育てようというのであればうるさい子供を許容すると同時に子供を他人と関係させるべきで、その双方の歩み寄りによってのみ「全体が関係する」ことが可能となるのではないか。

そうでなければいつまでも愛と金が紐づいた分断でしかなくなってしまうだろう。リスクを取るのであれば全員で、である。お金が再分配されるように愛情だって再分配しうるものであり、そのような社会的攪拌(カオス)こそが分断だったり少子化を解決する端緒になりうるのではないだろうか。