メロンダウト

メロンについて考えるよ

共同体回帰論は戦略的帰結なのでは

共同体は地獄だという記事を読んだ。

note.com

隣近所との関係が良好でなければ醤油を貸してもらえない社会は地獄であり共助ではなく公助のほうが弱者には本当の意味で優しいシステムであるというのは頷くしかないのだけど共同体ってそういう話だったっけと思わなくもなかった。

 

というのも社会の互助関係の構造として国家が担う役割は共同体から洩れた個人を助けることであって公助(国家による救済)は共助と衝突するものではないのでは・・・

個人が個人を救う、次に共同体が個人を救う、最後に国家が救うという順番の話であって共助より公助のほうが優れているというのはミスリードに思えてしまう。自助と共助と公助のどれもが充実していることが理想でありどれが優れているかという話は議題としては面白くても現実的に意味がある議論とはあまり思えないのだ。

精神疾患になった時に保険適用の薬によって助かることもあるし、心配して連絡してくれる友達が助けになることもあるし、町内会の親父が外に連れ出してくれることが助けになることもある。助かる手段なんてなんだって良いし多ければ多いほど良い。基本的にはそれだけであると思う。

 

おそらく今しきりに共同体論が言われているのは報道を見れば分かる通り少子高齢化や経済の低迷により公助のリソースが逼迫している(これまでのような国家に依存した個人主義的生活はいずれ行き詰まる)ので近しい人同士で助け合える関係を築くことが戦略的に必要だという話であり、つまるところ共助は余儀なく出てきた議論なのだろう。簡単に言えばいろいろ厳しい時代なのでみんなで助け合いましょうという話でしかなく、かつての因習的共同体に時代を巻き戻そうというのは誰も思っていないはずである。

 

というか現代を振り返ると日本はこれまで積極的に共同体を回避してきたのでそれをすこし修正しようというのは自然現象みたいなものではないかと思っている。90年代のニュータウン化や核家族化から始まり家には子供部屋をつくることが当たり前となりその後もワンルームマンションが数多く建てられ、コンビニや牛丼チェーンなど個人に最適化されたサービスが生活を支えるようになった。そうした社会構造の後押しもあってか、これだけのサービスが揃っている社会で生活に困るなんて怠惰であるとしれ自己責任論が強くなったのがかつての日本社会だった。そうした自己責任論も次第に鳴りを潜めるようになるが基本的に今の社会は個人が個人として生きていくようにデザインされていることは変わらない。つまり共同体を回避してきたのが近代日本の足取りであるのだがそのような社会では共同体なき個人が助けを求めるのは国家しかなく、「保育園落ちた日本死ね」に象徴されるように個人が困ったら直接的に国家に助けを求めるのが数年前までの日本だった。そして今、国家が個人を助けるリソースはどうやら逼迫しているとみなが知るようになって共同体が再考され始めている。かつて個人を縛り付けていた共同体には社会的役割があったのだと考え、因習や儀礼などの面倒くささを脱臭した共同体によるケアがなんとか実現できないだろうかと考えるのは「歴史の必然」みたいなものであろう。

そうした社会的背景はともかく、経緯がなんであれとにかく人が人を助けることなんて偽善でも物語でもなんでもかまわないと個人的には思っている。

 

人は一人で勝手に生活できる。けど人は一人で勝手に助からない。だから公助でも共助でもなんでもかまわないからとにかく困った時に見つけられるようにすることが重要であるように思う。進撃の巨人でベルトルト・フーバーが「誰か僕を見つけてくれ」と言ってたように困った時に思うのは助けてくれではなく見つけてくれのほうだったりはしないだろうか、なんてことはわからないが、いずれにせよ、今日は、とかく風が強い日だった。

具体的になっていく世界と言語化について

あけましておめでとうございますと言うには遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。今年もつらつらと書いていきたいと思います。


正直言うとなにか歳をとってきたせいか社会評論のようなものを書くモチベーションがすこしずつ落ちてきている感覚があります。最近は暇があれば散歩やゲームをしたり七輪で魚焼いてビール飲んで昼間から寝ていたり猫みたいな生活をしています。すこし前であればてきとうに本読んでネットを眺めたりして書きたいことが見つかればブログを書いていたのですが、猫のような生活をしているとやはりというかなんというかものを考えなくなりますね。

とはいえ正月からトランプがベネズエラの大統領を拘束、イラン情勢が悪化したり国内も右傾化し始めて物価上昇は収まらず生活は厳しくなっている実感があるのでいまこそ批評が必要な時代になっている感覚もあります。批評が必要といっても今の時代に必要な「批評」とはなんなのか正味よくわからないのも事実でそんなことを考えても詮が無いので諦めて猫のような生活をしていたのが去年なのですが今年はもうすこしものを考えないと駄目だなという自覚はあったりします(去年も同じようなこと書いたな・・・)


しかし本当に今の時代に必要な批評とはなんなのでしょうね・・・

すこし昔であれば近代化していく中でいかに実存を確保するかみたいな話がリアルの行方みたいな言い方をされていたしオタク・ヤンキー・ギャルなどの若者の生態分析やサブカル批評なんかも盛んだったけれどそうした議論も出版不況と共にあまり表に出てこなくなり今は若者分析は愚者の語りとして一顧だにされなくなりました。今は動画メディアでどう時勢を切り取るかというひろゆき的な語りが前景化してどうも批評というにはあまりにも具体的すぎるものが批評の地位を持っている気がしないでもありません。

ひろゆき的語りを反語にするつもりはないのだけれど、僕の感覚で言うと批評は倒錯したもの(感情や時代など)をさらに倒錯させる営みだと思っているのですよね。

人間、生きてればいろんなひずみだったり傷を抱えることがあり、真っ直ぐ生きていける人なんて1割もいないのではないかと思っているのだけどそうしたひずみを抱えたままではいろんな困難も同時に抱えることになるのでそこに言葉を充当したりしてすくなくとも呼吸ができるようにする。それが言葉が人を掬うという批評の役割な気がします。たとえばサブカル分析なんかも社会構造を念頭にこうこうこういう表現が出てきたと語られがちでそこにはオタク的世界観から社会へ接続するための導線が言葉として充てられているけれど、こじつけに近いものだって数多くあったはずです。でもこじつけでもなんでも自らの歪みや偏りが社会と接続しているんだと思えること、つまり倒錯した感情をさらに倒錯させて表に返すことが批評が一見すると倒錯的だけど同時に社会的営みである理由なのではないかと個人的には思います。


そう考えた時に今の時代に必要な批評とはなんなのでしょうか。翻して言えば今の時代の倒錯とはなんなのでしょうか。昔であればオタクやヤンキーに援助交際などが倒錯として語られがちだったけれどそういう特殊なスタイルで生きている人は見なくなりました。アニメは一般的な趣味となり援助交際にもかつてのスティグマが付与されているようには見えずヤンキーに至っては東京リベンジャーズでしか見なくなりました。

というか今の時代に倒錯することがはたして可能なのかという疑問すらあります。ここまで個人主義自由主義が浸透して他人の趣味や生活に立ち入ることが難しい時代ではかつて倒錯として数えられたものはすべてスタイルとして数えられるようになりました。倒錯としてカウントされることがそもそもなくなったため、どんな生き方もどんな趣味もはなっから倒錯ではないのです。結果として世界はごくごくシンプルにお互いを尊重しましょうで物事を片付けることがあるべき態度としてみなが受け入れているのが現状ではないかと思います。逆説的に言えばこのようなシンプルな世界観に反することだけが倒錯として数えられるようになったとも言えるでしょう。ただ、シンプルな世界観はそのシンプルさゆえに切れ味よく物事を取捨選択できてしまうという問題があります。世界が整理され、物事の善悪も整理された時には人々の考え方も整理され、人間も整頓されていっているというのは言い過ぎかもしれませんが、かつて批評がそうであったような倒錯した感情を人間的と見なす風潮はいまや鳴りを潜め、ずいぶん簡単に善悪を決めているような気がしてなりません。


批評は倒錯をさらに倒錯させる営みと書きましたが、言い換えればそれは人間の裏と表を両面として捉えることだったのでしょう。そうした両面的視座はシンプルな世界観においやられ、即物的で表面的で瞬間的で、そしてなにより具体的な見方がいまや支配的に見えます。それは言語化という言葉に象徴されています。なにか問題が起きた時には言葉を充当するのではなくとにかく問題を言語化することが求められます。仕事でも社会現象でもなんでもそうかもしれません。今この瞬間の具体的説明、それがすべてであり、物事に言葉を充てることはもはや要らぬお世話なのです。具体的に物事を解明し、分解し、みなが噛み砕きやすいようにする。善悪ではなく形状を語る。それが言語化として褒めそやされているのが今の時代のように思います。

見方を変えればそれは寂しいことなのかもしれません。批評なき時代では物事が言語化されたとて僕達はそこに解釈を与える言葉を持っていないのですから。かつて批評には倒錯した感情や人間らしさを社会へ返す役割を担っていたと書いたけれど今から思えばその言葉たちにはどこか温かさや隣人らしさがあったように思えます。今こそそのような温かさが必要な気がしていますが人には人の解釈があるという言葉、その使い物にならない短刀だけを懐に忍ばせやり過ごしているのが批評なき時代を生きる僕達の処世術なのかもしれません。

2025年の右傾化(リベラル化)についての考察

 

2025年が政治的にどのような年だったか振り返ると世界中で進行していた右傾化が日本にもやってきた年だと言える。

トランプ現象やBrexitなどが報じられていた頃、日本では安倍長期政権が続いていて様々な問題はあったにせよ政治的には安定していた時期だった。安倍晋三なき後はかつてのような首相が一年ごとに交替する旧自民政権に戻り、さらには公明党が連立を抜けるなど混乱が続くようになった。その混乱に乗ずるかのように右傾化の波が日本にもやってきて今年の参政党の躍進や高市総理の就任につながっているというのがおおよその見方であろうか。


この右傾化に関してだが、理由としてしばしば挙げられるのがリベラルへのバックラッシュであるというものだ。リベラルはとにかく駄目だとそこかしこで言われることがあり、僕もそのように書いたことがあるのだが、思い返してみるとリベラルが駄目だというのはどこからやってきたものなのかよくわからないところがある。そしてあまり振り返られることがない。

一般的に言われるのは欧米のトレンドであるリベラリズムを日本が輸入し、その影響でmetoo運動やラディカル・フェミニズムが社会的影響力を強めアファーマティブ・アクションや大学の女性枠のような様々な議論を巻き起こし、それがSNSをはじめとした各地で軋轢を生んでいるというものだ。しかしながらこと政治に限って言えばリベラル政党である立憲民主党社民党にれいわ新選組が与党になったことは一度もない。翻せば政治がリベラルになったのではなく社会がリベラル化したわけだがリベラル化した社会のその波を受けた当時の政権、つまりは自民党がリベラルな政策を推し進めてきたと言うことができるだろう。現実にリベラルな政策を実行してきたのは自民党であるのだが、そのバックラッシュとして支持を集めるのもまた自民党高市政権となっている。つまるところリベラルと保守という対立は日本では自民党内の力学を変えるためのマッチポンプに過ぎないのであるが、そのような認識が曖昧なまま立憲民主やれいわのようなリベラル政党にその矛先が向けられているのはいささか不可解である。現在問題となっている移民問題に関してもそれを推し進めてきたのは安倍政権の技能実習制度であるし、よくやり玉にあげられる男女平等参画会議に関しても男女平等参画基本法与野党合意で制定されている。リベラルを批判するのであれば日本社会そのものか、あるいはそれを民主的に政策として実装してきた自民党にたいして行うのが筋であり、リベラルに染まった政党や人物をチェリーピックして批判してもほとんど意味がないどころかスケープゴートにしているだけとなってしまうだろう。

とにかくこのリベラルは駄目だという感覚はよくわかるのだが、その矛先がどうもおかしな方向に向いているのがここ数年起きてきたことである。立憲やれいわのような左派に関しては選挙でずっと負け続けている。にもかかわらずリベラルがその影響力を強めているということは社会が左傾化したか自民党が左に旋回したかのいずれか、あるいはそのどちらもというのが正確な認識であろう。インターネットにはある種の特異集団としてのリベラル勢力がいて彼ら彼女らを批判することでリベラルは駄目だという認識が広まっているが、彼ら彼女らがそこまでの影響力を持っているようには思えない。


結論を言えば自民党は昔から右にも左にも振れる政党であるため、問題の本質は社会が左傾化したことにある。そしてこの左傾化というのは日本国内の話だけで言えば地方の東京化ではないかと思うことがある。

東京はメガシティーでいろいろな人・モノ・サービスが入ってくる場所であると同時にメディアの発信拠点にもなっていてそこで発信する人はいわずもがな東京の価値観を内面化している人が多い。地方から出てくる人も東京に住むと東京に馴染み、個人主義やそつのないコミュニケーション能力を獲得し、一部の地方で見られるような摩擦の多い共同体的関係から卒業して滑らかな人間関係を至上とするようになる。一般的な言葉で表現するなら垢抜けるというやつだ。他者を他者として線引きし、人との適切な距離感を大切にするというのは今でこそ理想的な性格として知られるがほんの数十年前まで自己は他者の内にあり他者は自己に内在するのがコミュニケーションの前提にあった。それこそ体罰や叱責のような今ではハラスメントにあたる行為がなぜ行われていたのかと言えば他者を他者として切り離すことが難しいという前提があったからこそだろう。なればこそ自己解釈で他者を変容させようとするハラスメントや指導がある種の正しさをもって行われてきた。しかしながらそうした摩擦のあるコミュニケーションは弊害が大きいということが一般的な認識となった。旧来的なコミュニケーションから抜け出して自己を自己として確立することが自己と他者の自由を至上とするリベラリストの振る舞いであるのだが、そのような振る舞いがリベラルのそれであるとは知らずに「標準」として東京から日本国内に伝播していったというのが社会がリベラル化していった道程である。

そのような、かぎかっこつきだが「東京の性格」がメディアに載る文章や喋りの言外に含まれ、国内に波及していった。さらにはルソーの言うところの一般意志(集合的無意識)が形成され、政治にも反映されるようになった。


さらに言えばこの東京的性格である「そつのなさ」や「標準」が右傾化した理由だとも言える。

言うまでもないことだが標準はナショナリズムや排外主義と相性が良い。右翼は標準を志向するからだ。異分子を許さず郷に入れば郷に従えという言説は今現在多くの外国人に向けられている。日本人には標準があってそれに順応できない外国人は国に帰れというのは右翼の定型句だ。しかしながらその標準はリベラル化した東京からもたらされたものである。かつての日本の標準はかなり毛色が違うものであった。かつての日本では上述したような摩擦のあるコミュニケーションが支配的で個人よりも共同体のほうが強く、個人を個人として尊重する様式はここ数十年で出てきたものに過ぎない。つまり共同体が負け個人主義が勝利したことで標準は変化し、リベラルが志向するそつのないコミュニケーションが現在の標準となったわけだが、そのリベラル的コミュニケーションの様式を本来は共同性を志向する右翼が論拠としているのが今の状態である。


すなわち左傾化が進み、リベラルの振る舞いが発信拠点である東京から地方に伝播し、それが標準になるとその標準をもってして次に排外主義が出てくるようになった。

いうなれば日本では政治がリベラル化したのではない。性格がリベラル化したのだ。その性格を持ってしてアメリカ的干渉主義である政治的リベラルが否定されることになった。

言い換えればもはや日本にはリベラルしかないのである。参政党や高市政権を支持する右翼が大事にしている標準はリベラルのそれであるし、多くの人が支持するコミュニケーションの様式もリベラルであるし、そうした社会の無意識を反映する自民党もリベラル政党であるし、当然ながら立憲やれいわもリベラルである。

そう考えるとリベラルへのバックラッシュというのは途端に意味がわからなくなる。僕達はリベラルを志向する。ほとんど全社会的にそうであるというのに、リベラルへのバックラッシュって・・・一体なにを指しているのだろうか・・・