メロンダウト

メロンについて考えるよ

不可視の時代と爆縮された民主主義

ジョセフ・ヒースの分析が面白かった。

econ101.jp


まとめると

・敵は移民ではなく大富豪であるという左派の呼びかけは他人事すぎて響かない

・大衆の直感に訴えることがポピュリズムの定義である

・大衆の直感は多くの場合、間違っている

・食料品や医療の価格が高騰している原因はサプライチェーンの上流にあるが大衆は目の前の価格を下げるよう求める

・実際に無理やり価格を下げると供給元が破綻する

・左派ポピュリズムと現実的であることは両立が難しい

 


大衆のひとりとしてかなり納得感のある記事だった。

世界がある種の複雑性に閉ざされているというのはかなり昔から感じていて、専門領域の分化であったりグローバリゼーションなど現実社会もとい資本主義がどんどん効率的になり拡大していく中で人間ひとりが把握しうることなんてほとんどなにもないのではないかという諦観は思い返せばずいぶん昔から感じていることのように思う。

諦観というとネガティブな印象を与えてしまうかもしれないが、もっと一般的な言い方をすれば自分が知っていることと知らない(であろう)ことを切り分けることであるが、こちらは適切な振る舞いとして知られている。

社会や経済が複雑になっていくと全体を見渡すことがどんどん難しくなっていくことは言うまでもないけれど問題はサプライチェーンの内側にいる人ですら自分たちが何をやっているかよくわからないことであろう。その問題が顕在化したのがウイグル綿だった。ユニクロやナイキなど大手ブランドの洋服にウィグル綿が使用されていたことが話題になったことがある。中国のウィグル自治区は事実上の強制収容所になっていてそこに収容された人が織ったものがウィグル綿であり、その労働環境の劣悪さから問題となった。

類似する問題としてレアアースであるコバルト採掘の問題がある。コバルトの原産地であるコンゴではコバルト採掘のための児童労働が横行している。さらには環境汚染が深刻になっている。環境に配慮した電気自動車を作ろうとEVを推進した結果として発展途上国にそのツケを押し付けることになっている。

すこし昔だとブラッド・ダイヤモンドの問題もそうかもしれない。


こうした問題の数々に相対しても世界が複雑である限りにおいて僕達はその罪悪感から逃げることができる。単純にそんなことは知らなかったと言えば良い。実際にサプライチェーンの内側にいる人ですら実態を把握できないのだからその外側にいる消費者は知りようがない。世界が複雑であるというのはある意味で絶望的な言葉なのである。自分達が何をやっているのかよくわからないのだから。

 

そうした複雑性に閉ざされている状態とは反比例する形で単純化も同時に進行しているように感じている。政治においてはその傾向が顕著だ。社会や経済はどんどん複雑になっていく一方で政治にまつわる言説はどんどん単純なものになっている。耳障りの良いスローガンを掲げ、社会の複雑さはとりあえず棚上げし、大衆の直感にリーチするようSNSで働きかけることが随分昔から問題となっている。特に右翼の言葉は世界中で似通ったものになってきていて、各国で右派ポピュリズムが支持を集めている。ある種の単純化された言説の通りの良さはすこし前に大衆が亜インテリと呼ばれていた頃よりも確実にその影響力を強めている。

 

もちろん実際の政治の現場が単純になったわけではない。あいかわらず政治は人間関係の調停だったり外交など複雑なものであることに違いはないのだろう。しかしながら、こと選挙や報道などになると政治の複雑さは忘却され単純さが幅を利かせるようになる。


このような複雑さと単純化が同時進行している状況をどう見るべきなのかというのはひとつ大きな論点ではないかと思う。

個人的に思うのはウイグル問題のように誰も複雑さを見通すことができない状態になるとむしろよりシンプルな世界観が採用されるようになるということだ。

社会が複雑だという「説明」はごく一部の賢人のみがその意味を掴むことができる独占的なものとなり、多くの人が社会が複雑だと言う時にそれは賢しらさを披露するための常套句に過ぎなくなってしまう。サプライチェーンの内側にいる人ですら全体像がわからず、個人は個人の専門に閉じられている状況では総体としての社会を展望することが極めて難しい。

言い換えれば社会を説明することが誰にもできなくなり、社会が消え、個々人の世界観が個々人の社会として採用されることになるということだ。

その個々人の世界観を繋ぐためにはよりシンプルな言葉が必要とされる。詳細を描写し、複雑さをそのまま提示するようなセンテンスを使うと個々人の世界観とズレが生じるためだ。逆にシンプルで解釈の余地が残る強い言葉を使えばその言葉を受け取った人が勝手に予測変換し、解釈し、咀嚼してくれる。

たとえば「日本を取り戻す」などである。何を、どのように、いつまで、といった具体的かつ複雑な領域に言及すると途端にこの言葉は危ういものになる。アメリカ依存の防衛政策をやめ主権を取り戻すと言えば日米安保の解消か否かといったセンシティブな話題に言及することになりズレが生じる。

ある種のシンプルな抽象性に留まることで社会の複雑さを棚上げすることができ、そのシンプルさゆえに個々人の世界観にリーチできる。つまり社会が複雑であること、その巨大さが手のひらのスマホに収まるように爆縮すること、それがSNS政治の要諦なのではないかと思う。


冒頭記事では大衆の直感が間違っていることとフレーミングの違いが左派ポピュリズムが出てこない理由として挙げられているけれど、そもそも論として誰が社会なんていうものを「わかっている」のだろうという疑念が僕にはあるのだ。仕事して、本を読んで、なにがしかのコミュニケーションをとりながらかつてないほど開かれた情報化社会に生きていても僕にとって社会というものは不明瞭な膜のままなのである。その不明瞭さに抗う直感はヒースによれば間違っているのだけれど、それにしてもその直感にベットするしかないというのが民主主義のはずでは、と一方で思ったりもするのである。

なんにせよ社会というのはやんごとなき場所である。