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ぜんぶ資本主義が悪い~『人新世の資本論』を読んでの所感~

斎藤幸平さんの『人新世の資本論』を読んだ。

資本主義は限界を迎えており、格差や気候変動といった問題を資本主義による経済成長によって解決するのは、結論としてもう無理であると書かれていた。トリクルダウンのような無限の経済成長を前提とした格差の解消は失敗に終わり、資本の運動に身を任せて「成長」を続ければ世界が良くなるといったものは虚妄や神話に過ぎない。脱成長を目指し、社会のシステムを抜本的に再構築する必要があると書かれている。そのためにコモンズ(公富)によるレジリエンスが必要であると。ピケティなどの主張にも繋がる本だった。最近だとサンデル教授のメリトクラシー批判にも同様の主張が垣間見えるけれど、ようするにもはやこの世界は「公正」ではないのだとあらゆるところで書かれている。それが結論なのでしょう。いまやそれは当たり前の前提として共有されるべき話になっており、それをもとに政策を打ち出しているのがバイデン政権となっている。

 

この世界はもはや公正ではない。上位10%の人々が出す二酸化炭素排出量が世界の半分を占めており、富の格差に関してはそれ以上で、尋常ではないものになっている。それでも我々は労働者として経済活動を余儀なくされている状態を見るに、公正ではないということは肌感覚としても感じるものであり、論を待つ必要すらない。そういった「実地的感覚」がまさに斎藤さんの本が売れている理由でもあり、ピケティやサンデルの主張が支持されている土壌となっている。

ありていに言えば資本主義というOSはもはや限界なのである。

 

 こうした資本主義の問題は、ありとあらゆるところに溢れかえっている。再分配や成長といった経済的側面に限らず、資本主義による「査定」によって我々の人間性が歪められている場面は数知れない。

 たとえば最近ネットで話題となっている弱者男性問題も、そのほとんどが資本主義の問題と言って差し支えない。恋愛が取引となっていることは以前にも書いたけれど、そのような市場においては男性が「資本的能力」=収入や貯蓄といった側面で評価される事態となっている。このような事態は資本主義によるものだと言って間違いない。資本主義をネオリベ的に放任すれば格差が広がるのは自明であるが、男性の価値が資本価値と連動した社会においては、そうして広がった格差がそのまま男性の価値に跳ね返ってくることになり、そこで弱者男性問題が生まれる。こうした観点から見るに、弱者男性問題とはつまるところ資本主義の問題と言って間違いないであろう。

 あるいはこうした格差によって結婚できない個人が増えて少子化になっていることも勘案するに、少子化も資本主義が抱える問題だと言える。

さらに言えば、こうした資本格差の問題は男性に限った話ではない。女性のジェンダーギャップ指数や産休などの問題も資本主義によるものだと言える。単純な収入格差の問題にしても、言ってしまえば貨幣経済が原因と言える。資本主義的な競争において体力的に劣っている女性のほうが不利であることは誰しもが知っていることであろう。そのような資本主義のルールであるからこそ、女性にゲタを履かせようという社会運動=アファーマティブアクションなどが存在している。女性にとって資本主義は原理的に不利なルールだと言える。

 

あるいは、もっとベタに生活レベルで見た時にも資本主義的作法とでも呼ぶべき「 儀礼性」に僕達は支配されている。儀礼的無関心によって個人はバラバラになり、契約上適切な条件のもとに人間関係が成り立っているために自己責任社会となっている。人間関係すらが資本主義のもとに繋げられている。そのために、他者に踏み込むことが容易ではなくなり、すべての関係が目的的なものへと変化していく。それが資本主義による適材適所という原理であり、その意味で、適材である=人材であることが求められる。生活レベルにおいてもありとあらゆる場面で僕達は資本の運動の中に押し込まれていくのである。

 

斉藤幸平さんは『人新世の資本論』冒頭に「SDGsは大衆のアヘンである」と書かれている。気候変動において本来見るべき問題(資本主義)を直視しないで、SDGsという一時的な痛み止め的に過ぎないものに逃げ込んでいる意味で、それをアヘンだと呼んでいる。このような構造はSDGsに限ったことではない。痛み止め的な「仮の処置」によって本来ある問題を先延ばしにしていることは、たとえば我が国の年金などもそうであるし、少子化もなにもかも、すべてを痛み止め的に処理することで、未来へ負債を積み上げている状態となっている。

つまるところ資本主義は痛み止めによって延命されつづけているだけであり、その痛み止めの副作用とでも呼ぶべき問題が各所で噴きあがってきている。結論としては資本主義はすでに限界であるため、抜本的に見直さなければならない。という論旨でマルクス資本論に還ることになる。それが斉藤幸平さんの著書で書かれていることだった。

 

ゆえんすべての問題は資本主義と連動している。資本の爆発的な運動によって環境が破壊されたことを筆頭に、年金、社会保障費、少子化、格差、政治の腐敗、ポピュリズムSNS、弱者男性女性問題などすべてが資本主義と連関したものであると言って差し支えないであろう。

それでも私達は資本主義をやめないどころか、完全に内面化してしまっているし、資本主義を自明のルールとして採用している。資本的に勝利した人間が実権を手にし、以下すべての人民及び労働者はその下で抜きんでたいと欲望し、それがさらに資本運動を加速させ、さらに資本家に富を集積させていく。もはや労働をしても抜きんでることはないという解答(r>g)がピケティによって提出されているにも関わらず、それでもなお我々は「無垢の歯車」としての労働を条件的にやめることができない。そのような条件下において資本的に不利な女性が資本を持つ男性に群がることは当然の事態であるし、そのような構造である以上、男性はさらに加速度的に資本の運動の中に埋没していくのである。 

こうした「資本の連関」にたいしてアヘンとして売れているのが慰め合いとしてのSNSであるし、現実逃避としてのフィクションとなっている。ニーチェは近代の大衆のことを「畜群」と呼称した。近代は大衆の時代であり、大衆はブロイラーとして飼育されている家畜同然であり、偽装された神(ここでは資本主義や貨幣)のもとに平等であり、その意味で大衆は「牧場の幸福」に耽溺していると書いている。そうした環境の中にあって、人は人を超えるしかないという意味で超人という概念を書いた。

こうした牧場的幸福がまさに斉藤さんが指摘しているアヘンそのものであり、資本主義下における畜群として我々は飼育されていると言ってしまっても良いのではないだろうか。もはや資本主義が限界であることは自明の前提として共有されるべき話となっている。個人単位での戦略ではいまだに、ニーチェ的な文脈において「超人化」することが最適解であるかもしれないが、個人が超人となり幸福になったとしても資本主義の問題は温存されつづけるままであり、何も変わりはしない。それは超人的に生きている現代のリベラルエリート集団を見れば是非もないことである。資本的に勝った人間は大衆が畜群であることを望む。革命など起こされては困るので牧場の幸福にいそしんでアヘンを打ってラリパッパしていてほしいのだ。

そういった意味で、リベラルエリートはSDGsといったアヘンに大衆を逃げ込ませているのであり、資本主義そのものが抱える問題に着手することはない。あったとしてもそれはヒューマニズム的観点による再分配に留まるものとなっている。

 

この世界はすべて資本と連動し、繋がれている。それがありとあらゆるところで問題をひきおこしている。それでもなお僕達は資本主義をやめようとはしない。あるいは僕自身もそうである。資本主義をやめてしまえばいいなどと大胆な提言をできるとは思っていないけれど、それもまた畜群的な無力感に支配されているだけなのかもしれない。

しかしながら、すくなくともこの世界が資本主義で覆われていることは自覚して生きていくべきであろう。そうでなければ、それがアヘンであることも気づかずにSDGsなどという観念の雑草(西部邁)を食みながら牧場の幸福に囚われたままになってしまうのだから。