メロンダウト

メロンについて考えるよ

「清濁併せ飲む」は実質がなくなっていくのではないか

この前ラジオを聴いていたのだが、なにやら中学受験が話題になっているみたいである。

そもそも中学受験は必要なのかから始まり、中学受験は親のエゴではないか、子供の感受性を伸ばす時期に受験勉強させるのは間違っている、子供にストレスがかかり不登校になったり時には最悪の事態になるケースもあるなどが主だった論点だろうか。

 

前提として子供に何を与えるのが正解なのかよくわからないということがあるのだけど、それにしても小学生の頃から受験競争に参加するのはすこし異様に見えてしまうところがある。
小学生というと一応は自分の意志を持つようになる年齢と言われることが多い。しかし
自分が小学生だった頃を思い返すと自我と呼べるほどの意思決定能力があったとは思えないところがある。小学生にもなると割合しっかりした子もいて傍目から見ると自分の意志を持っているように見えるけれど実は親の期待に応えようと頑張っているだけだったり、友人とコミュニケーションをとる時も手探りで頑張っている子が多いように見える。そんな試行錯誤が身を結ぶかどうかはさておき手探りの過程を経て高学年になるにつれ自我らしきものを獲得するのが一般的なのではないかと思う。
なので小学生は自我を形成している発展途上の時期なのではないかというのが個人的な観測である。

いずれにせよ中学受験は親のエゴ、というと表現が棘々しいけれど半ば以上は親の影響によって決められることなのは間違いなさそうではある。

その是非はあるにせよ親の影響といっても実際に中学受験させたほうがその子にとって良いケースもあるし、そうでないケースもあるはずなので一概に中学受験は良い悪いと言うことはできないのだけれど

この中学受験の話題を見ていて気になったのは「公立中学に行っていろんな階層の子と付き合える素地を養ったほうが良い」という意見である。

 

議論の建付けとしては中学受験すると子供の頃から同質的な集団の中に入れられて他の環境で生活している人のことを知らないままになってしまうため、中学までは公立に入れていろんな人と触れあったほうが良いというものだ。
この議論はかなり大切な指摘だと思うし同意したいのだけれど、果たして本当にそうだろうかとも思ってしまう。

一昔前であれば本当にいろんな人が混在しているのが社会だったけれど、今は仕事も分業になっているケースが多く、なにより住み分けがどんどん進んでいっているように見える。
かつては渋谷に行けばよくわからないメイクのギャルだったりどう見てもかたぎではない人がいたりしたけれどそうした「いろんな人がひとところに集まる場所・機会」はどんどん少なくなっている。
ヤクザは暴排条例で街中から排除され、飲み屋に行ってもなんの集まりかよくわからない集団はほとんど見なくなった。
場所は公共性に埋もれ集団は目的的になっていく。
清濁併せ飲むと言えば聞こえは良いけれどこれからの社会にあって本当に清濁併せのむ機会がどれほどあるのか、それが疑問なのだ。今はまだ清濁併せのむ必要があると思っているけれどこれからますます分業化と住み分けが進んでいくことは間違いない。コンビニの店員とコミュニケーションを取る必要すらそのうちなくなるだろう。
仕事は分業化され専門に閉じられ、社会は無人化していき、コミュニケーションは気が合う仲間と取ることがもっぱらとなり、ネット上で「濁」に出くわしたらブロックし、公園で異分子と遭遇したら通報する。
そんな未来はそう遠くないはずである。
それを考えると、子供にたいして清濁併せのむ素養を持つように教育することは単に濁に染まるリスクを与えるだけになる可能性すらある。

もちろん清濁併せ飲むことが美徳であることは間違いない。けれどその価値観は機能的に無意味になっていくのではないか。そんな気がしている。
それこそかつて武士道という美徳が今や現代風にアレンジされスピーチの枕詞に使われるだけになったように、人と人とが殺し合わなくなれば武士道はその実質を失い「態度や姿勢を表す言葉」になる。同じように清濁併せ呑む必要がない社会になれば清濁併せ呑むことの実質は必要なくなっていく。
清濁併せ飲むことは武士道と同じように美辞麗句となり、教養の一形態にそのうちなるのではないか、なんてことを思ってしまった。