はてなブックマークを眺めていたらまたぞろ差別についての議論が盛り上がっていた。
「女性専用車両は男性差別にあたるのか」「差別する人を差別することは差別なのか」などが定期的に話題になる。永遠と同じ話題を見続けているけれど新規で入ってくる人がいるのでしょうがないことなのかもしれない。
僕も長いこと差別に関する話題を見てきたけれど差別に関してひとつだけ見過ごされていることがあると思うのでそれを書いていきたい。
差別というと広義すぎる話であり、必要があれば具体的な話に落とし込んでリスクリターンを計算しつつ女性専用車両のような対策を実装するのがおそらくは正しい議論の仕方である。困っている人がいれば話を聞き、公共性や対立する権利との兼ね合いを見ながら慎重に対処していくしかない。なのでこれから書く話はややもすると意味のない話である。
差別に関する議論を見ていると僕は差別と言った瞬間に失われるものがあると感じることがある。これはなにも差別されている人にたいし声をあげるのをやめるべきだとか議論を始めるべきではないと言いたいわけではない。ただ単になにが差別であると発することには小さくない弊害があることをすこし気に留めても良いのではないかという話をしたい。
・差別の公共化
いくつかあるのだがはじめに私的問題が公共化されることの弊害について書いていきたい。
「差別と言った瞬間に失われるもの」がなにかといえばそれは私的であることにある。差別という大きな枠組み、とりわけ政治の言葉で問題を捉えた場合にはそこにどうしても公共性が紐づくことになる。それにより差別は私的問題から離れ政治の領域へと移行する。なにか差別があった時には当事者同士の紛争ではなく公権力が介入して対処にあたる。それが差別の解消法となる。傷害や窃盗の被害に遭った時と同様に差別された時には政治にたいして申し立てを行い、解決を図る。つまりは政治的問題へ還元できる種類の差別にあった場合、その問題を私的に捉える必要がない。これによって失われるものは葛藤である。差別されている理由を探したり何故差別に遭ったのかを考えること、そうしたプロセスは無用の長物であり、差別に遭った時にはSNSその他を駆使し、いかに社会的議論として拡散し政治に申し立てるかという方法論だけが差別にあった時に考えることになる。差別にたいしてうまくやっていくとか付き合っていくと考えること自体が不毛であり、悪いのは差別している人達でありそれを解決するのは政治や社会であると。そうしたプロセスが常態化すると差別問題は私的であることをやめていくようになる。つまり私的に紛争を解決しようとすること自体が回避され、差別にあった時に当事者に残るのは悲しみや苦しみのような私的感情のみとなる。悲しみや怒りはある。しかし葛藤はない。それがSNSによって再配備された差別の現在地なのである。
・差別の高速化とマニュアル化
そして、こうした方法による申し立てによって失われるものがある。それが2つめの問題。すなわち考えることをやめることである。差別が政治的問題へ還元されると私的であることをやめると書いたが、そうしたことを繰り返していくと自然と何が差別にあたるかという目録ができあがってくる。女性差別に男性差別、LGBTに外国人、肌の色、容姿、能力、学歴に経歴、年齢などなど。今ではありとあらゆるものが差別として列挙されているがこうした目録をつくっていくと差別かどうかの判断はマニュアル化していくようになる。誰かがなにかを発言した時にそれが差別にあたるかは今まで出てきた議論によって作られた目録を参照し、差別かどうか判断される。この判断は目録を参照するという方法を取る限り極めてシステマティックなものになる。過去の出来事を判例として利用することで差別かどうかが決められる。つまり何が差別にあたるのかはマニュアル通りに進められるようになるのだが、そうなると時間をかけて考える余地が失われてしまう。すなわち目録というシステムによる差別の高速処理化である。差別か否かが目録というフィルターを通して判断されるようになれば瞬時にその結果(差別かどうか)が出力される。そうなれば考えることを諦める人がでてくる。考えることをやめてただ従順にマニュアルに従うこと。それが適応戦略として採用されることになるだろう。
・差別の権力化
そして差別と発することによる3つめの問題が権力闘争である。
差別は議論を通して目録化されると書いたが、目録とはつまるところ権力である。何が差別にあたるかの目録をつくると踏み外した者にたいして社会的制裁が課され、場合によっては職を失う。こうした権力は従来はマスメディアのものであった。メディアが何を報道するかを選別することそれ自体が目録であったわけだが、ネット社会になって以降、なにが差別にあたるかは特にSNSを通して決定される。その中には誰が言い出したかわからないが目録になっているものもあったりといつのまにか錬成された目録が社会を覆っている。言い換えれば差別に関する目録をつくることができれば法治主義の外側から社会的制裁を課すことが可能ということだ。そうであるがゆえにみながいろんな言葉や概念を発明しようとする。マンスプレイニング、マイクロアグレッション、〇〇ハラスメント、負の性欲、ミソジニー、ミサンドリーなどなど。これらの言葉が産まれた背景には言葉が発明され目録に登録されれば差別の要件としてカウントされ、社会を変える権力として機能するようになるという予見があるのではないかと思っている。実際に社会はハラスメントという言葉が広まってから劇的に変化した。同じような変化を別の言葉によって起こせないか。SNSの承認欲求や連帯感と結託することで社会にたいして訴求する言葉をどうにかして発明できないか。その言葉をどうにかして目録に載せることができないか。そうした「他意」が働いていないか、差別というシリアスな話題ゆえに斜めからの批判が回避される性質が差別問題にはないか。あまつさえその構造を利用しようとしている人がいないかを注意したほうが良い時もあるように思う。
なにが差別にあたるかという一見すると社会に必要な議論がその必要性ゆえに莫大な権力に繋がり、場合によっては闘争へと発展する。それが差別と発することによって生まれる権力闘争の機序なのである。
まとめると
差別問題が私的であることをやめて公共の問題へ繰り上げられると実際の裁判のように判例主義的な側面を持つようになり、それらの判例が目録に載ると社会を動かす莫大な権力として機能するようになるために差別問題は権力闘争の側面を含む。もちろんそれが差別問題の本質などと書くつもりはなく、差別に遭った際には政治に申し立てるべきものもあることは間違いない。差別からの解放という願いを潰すべきではない。ただ単に、それらの小さな願いが積み上がってくるとなんらか人を規定するシステムとして機能し始めることがある。差別に関する個人個人の願いはとても真剣で切迫したものであることは間違いないけれども誰が意図したわけでもない全体性の中に差別問題は埋没していることがある。その中に埋没し、目録を内面化した人が差別問題を見た時にはきっとこう言うだろう。またやってる