メロンダウト

メロンについて考えるよ

太田光氏が陥った抽象化の罠について考える

太田光氏が統一教会擁護かのように受け取られる発言をして毎週のように話題になっている。実はけっこう興味深く見ている。おそらくは司会者として議論のバランスを取るように、あえて逆張り的なことを言っているのだと思われる。

先週も太田氏は統一教会に洗脳された信者を家族が連れ戻す行為を拉致・監禁と発言し炎上していた。洗脳された人とその家族の問題はかなり難しい問題でナイーブな側面があるのでここで言及することはしないけれど、個人的に気になったのは太田氏のスタンスである「バランシング」についてだった。

よく議論では双方の論点が衝突した時には善悪二元論で決着をつけるのではなく落としどころを探るのが重要だと言われる。たとえば男女の問題は共存を前提に取り扱われるべきで善悪で議論するのではなく双方が住みよい形に社会を構想していくのがあるべき言論ではあるだろう。他にも年齢・美醜・能力のような場合、公正や人権などの抽象的理念を持ち出しバランスを取ることによってなんとか社会が成立するという側面がある。このような議論に関しては太田氏のようなバランシングが重要なスタンスになってくるはずだ。

しかしながらそうではない場合があり、善悪を線引きしなければならない場合もある。たとえば最も広く知られるところで言うと、交通事故を起こした際には過失割合がつけられ、どちらが悪いのか、あるいはどちらのほうがより悪いのかが決まることになる。さもなければ事故を起こした当事者同士の議論・交渉により落としどころを探るということになるが、直接的な利害が絡む事故の場合、当事者同士の対話で落としどころを探るのは到底無理であるため、第三者に入ってもらい善悪を判断してもらうのがしかるべき対応となる。

 

つまり議論にはバランスを取るべきものと善悪の割合を判断すべきものがある。

前者(バランスを取るべき議論)は複雑な要素が絡み合うものであるため、より抽象的に考えるべきで、行き過ぎた具体化(女性は○○、男性は○○など)をすれば即座に差別に繋がることを警戒すべきだと言える。

後者(善悪の割合を判断すべき議論)に関してはむしろ逆で過度な抽象化のほうこそをむしろ警戒しなければならないように思う。なぜなら、具体的な利害が絡む問題を過度に抽象化すると問題の焦点がブレてしまい、判断すべき善悪の基準が霧散してしまうためである。事故や事件にあった時に誰かが双方のバランスを取るよう「宥めた」としても現実が変わるわけではない。むしろ宥めることによって被害への見積もりが甘くなり当人の救済にとって邪魔になるということがある。事故や事件の当事者に必要なのは善悪を執行してくれる機関であり抽象化やバランシングを施す人ではない。

 

そして統一教会による洗脳の問題は明らかに後者、つまり善悪を判断すべき事件だと言える。

合同結婚式に代表されるようにカルト宗教にはまった信者は家族と引き離されることがある。親しい人と引き離すのはマルチでもよく使われる手口であり、統一教会の場合、教会から引きはがそうとする外部の人間をサタンと教え信者を囲っていたことが明らかになっている。そうして連れ出され洗脳された信者とその家族の問題は明らかに具体的な善悪判断を必要とする問題であるため、前述した理由によりバランシングという抽象化を施してはいけない問題だと言える。それは仮に家族が洗脳され誘拐された場面を想像してみるとすぐさま理解できることではあるだろう。太田氏のように「相手も救済しようとしている」と言うことは問題の焦点をぼやかすだけで意味がない。家族を誘拐された人にとって見ればほとんど何を言っているのかわからないはずだ。家族と引き離し生活させるのが救済だというのであれば「救済対救済」という構図になるが、宗教団体が信者を家族から引き離すのは明らかに倫理(定言命法)に反しているので、カルト宗教による洗脳を救済と呼ぶことは、そもそもできない。

 

とはいえ逆張りでバランスを取ろうとする太田氏のような人が出てくるのもわからないではないのだ。というのも統一教会の問題は政治と宗教という一見すると最も抽象的な議論がそこにあるように見えるためだ。現在、統一教会に関して他に議論されている献金政教分離の議論は他の宗教との兼ね合いも出てくるため、抽象的に考えざるを得ない。そこで統一教会≒宗教全体という錯誤が生まれているのではないかと思われる。しかしながら統一教会の問題は宗教一般の問題に接続できるものとそうでないものがある。

政教分離のような抽象的問題とはまったく別のフェーズで考えなければならないのが洗脳された信者とその家族という問題なのだろう。そこは明確に切り分けて考えたほうが良いように思う。統一教会の問題を宗教全体に敷衍し、たとえばキリスト教や仏教も洗脳という人がいるが、そのような過度な抽象化はやめたほうが良い。この場合、つまりある宗教を信じている場合、「どのように」洗脳されているかだけが問題であるからだ。つまり信者を家族と引き離して韓国に飛ばす宗教は他になく、誘拐という具体的な問題だけが問題なのである。

 

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とりわけ社会的な議論、男女や差別の問題に触れすぎると「グレーゾーン」「バランス」「着地点」などの言葉に引きずられることがあるように思う。私もこの手のバランスを取るような記事を書くことがよくあるけれど、たぶんそれらの言葉は万能ではないし、持ち出して良い時と悪い時がある。最近の政治的な議論はよく党派に分けられていると言われ、国葬に関しても安倍総理の最後の分断と言われていた。実際に政治はアベか反アベかという状況は確かにあったし今も残っていると思う。しかしながらそれと同時期に出てきたのが、その党派性を乗り越えようという政治スタンス、つまりは中道であったと振り返ることができる。中道は党派に振り分けられた政治情況にたいしては一定の役割があるのは確かであろう。しかしながら中道の弊害については誰も語ることはないままに現在まで来ている。友と敵の対立を乗り越え中道を進もうとする人々は私も大いに賛同するところであるが、しかし中道が暴力たりえないということもまたないように思う。友と敵があり、そこで起きる対立は時に善悪の線引きを必要とすることがある。その時、中道がその対立を無化しようとするが、その無化こそが暴力になりえる場面がある。保守も、リベラルも、そして中道もそれだけでは不十分な理念なのだろう。

過度にバランスを取ろうと試みる太田氏の発言を見ていたらなにか我が事のようにそんなことを思ってしまったのであった。