※すこしだけ長文です
近頃「何が悪い」という言葉を目にするようになった。
典型的なのが「日本人が日本を愛して何が悪い」である。右翼の定型句なのだが短文でやりとりするSNSにおけるキラーワードになっている。
何が悪いかというと愛と憎しみは愛憎という言葉が示すように表裏一体なので政治に用いるのは適切ではなく予後が悪いのであるが、そういう裏表の機微みたいな話は響かなくなってきている。他にも愛という感情を政治システムに組み込むとインスタントな感情によって政治が左右され民主主義が「逸る」ことになり、逸った民主主義は政治的決断の速度を加速させるために強烈なリーダーを求め独裁に至る可能性が高くなるという理由もある。いずれにせよ愛国心は万能ではない。場合によっては劇薬になる可能性がある。だから保守というのであれば自国への愛だけでなく愚かさも含めた歴史に立脚しなければならないというのが一般的な保守思想であろうかと思う。
政治的枠組みだけでなくこの「何が悪い」という言葉は現代を象徴しているように思う。
おかしな言い方であるが現代においては「何も悪くないのであれば悪くない」のである。単純な逆説だが悪いことをした時の懲罰感情が強くなると逆説的に何も悪くないこと、つまりは無謬であることの正当性は高まっていく。実際に現代では何か悪いことを行ったり発言することのリスクが高まっている。岡田斗司夫がホワイト社会と述べていたように一般社会でも倫理的に正当である必要性が日に日に高まってきている。小さなことが拡散して甚大な社会的リスクになることをみなが考慮し、企業はDEIやコンプラを整備しつつ、個人はリスクを回避するか、もしくはリスクを踏み越えてアテンションを集めてお金に変えるといった振る舞いを取るようになった。回避しようが踏み越えようがつまるところ行動の軸として正しさを採用していることは変わらないのであるが。
そしてこの正しさというのは現実にはほとんどの場合、簡単に白黒つくことが多い。「現実は複雑だ」という言葉、真理はほとんど意味を為さない。上述したような政治に関する抽象的な話は言ってしまえば机上の空論で現実に流通している正しさは一意であり、「何が悪い」「誰が悪い」で片がつくことがほとんどだ。犯罪を犯した人が悪い、不倫した人が悪い、スピード違反、コンプラ違反、労基法違反etc。だいたいの物事は白黒つく。裏表のような抽象的議論が入り込む余地はほとんどない。そういう一意の正しさによる判断を日頃から行っていると政治においてもシンプルな論理が通用するのではないかと錯覚しがちだ。政治は日常にかなわない。日常で下している簡易的判断が政治に侵襲した時に出てくる言葉が「何が悪い」なのである。
なぜこんな話を書いているかというと久しぶりにXを見たら不登校Youtuberで有名だったゆたぼんが典型的なネトウヨになっていてすこし驚いたからだ。スパイ防止法の話に関して何が悪いという論調でまくしたてており、果てには津田大介さんのことを敗北者と罵っていた。どのツイートにも万を超えるファボがついていてすこし心配になるレベルなのだがスパイ防止法の論点について津田大介が知らないはずはないのに10代にやりこめられる左翼という構図を称賛する人がたくさんいてなにかグロテスクなものを感じてしまった。高校生は一番大人に歯向かいたくなる時期なのでゆたぽん自身に関してはそういう年頃で済む話なのかもしれないが、10代の威を借りて鉞を振るう大人達のなんと醜悪なことか、というのが一連のツイートを見た僕の感想である。
とはいえ右傾化しているのはゆたぼんだけではない。若者が右傾化していると言われて久しいが、先の参政党の躍進や高市総理の支持率を見ると日本は右傾化したと見るのが妥当だ。
右傾化と言っても欧米がそうであるように右派ポピュリズムと評したほうが正確であるが、「何が悪い」という言葉に象徴されるように政治的機微は後塵に追いやられ感情的判断が政治を左右する現状は紛れもないポピュリズムの到来と言って良いはずだ。
このポピュリズムという言葉を見るたびに僕は西部邁の言葉を思い出す。西部さんはポピュリズムには一定の正当性があると語っていた人である。すなわちポピュリズムにはエスタブリッシュメントへの抵抗という意味があると。労働者階級による特権階級への抵抗。そこには本来的な意味での民主主義が含まれているはずだと。
しかしながら同時に西部さんは次のようにも言っていた。すなわち「今起きているのはポピュリズムではなくポピュラリズム、つまり人気取り政治である」と。労働者階級のための政治というとリベラルの理念そのものであるわけだが、どうもそのような政治的理念によって今の政治が動いているわけではなく、人気取りに左右されるものになっていると。この言葉を西部さんはマスメディアを念頭に発言したのだと思われるが、西部さんの言葉はSNSが全人的に普及し、その威力に誰も抗えなくなったネット社会においてこそ強く響く。
選挙においてもSNS戦略が非常に大きなウェイトを占めるようになっていていかにしてSNSで人気を集めるかが実政治を左右している。
そしてSNSにおいて重要なのがいかにわかりやすく数秒で伝えるかであるが、そのような「秒間」に政治的機微が入り込む余地は存在せずインスタントな感情である愛の影響力が強くなる。その結果として「日本を愛して何が悪い」という右翼の定型句がSNSを通して市民から出力されるようになった。
単純化された愛は極右と区別がつかない。秒間は愛にまつわる厄介事が介入することを許さず、政治的機微を吹き飛ばしてしまうのだ。
このような話を書いているとまだブログが生きていた時代には「行間を読む」のが推奨されていたことを思い出さずにいられない。ネットは素人も発信するメディアなのでみんな完璧な文章なんて書けないんだから行間を補完して読むことが作法であるみたいな話だったと記憶しているが、今から思えば行間を読むのか読まないのかに関わらず行間が存在できていたことが幸せなことだったのだろう。
今は動画メディアが主流だが、右翼の発信源とされるYoutubeやtiktokのようなショート動画には行間が入り込む余地は存在せず、多くの動画がそこにある刺激に視聴者を埋もれさせるつくりになっている。僕もYoutubeで政治系の動画を見ることがあるのだが、見てる時に感じることはこれは思考ではなくほとんど反射なのではないかということだ。ショート動画であればなおさらであるが、ある刺激にたいして反応する。単にそれだけではないかと。企図された刺激にたいして釣られる。それを繰り返していると、柔らかさを失い、スマホを世界と錯覚し、近視眼的になり、レコメンドされた動画の波に思考を攫われることになる。実際に右翼系の動画を見ていると「こんなこと」を繰り返していたらネトウヨになるのも無理はないと強く思う。国民としての被害者意識を増幅させ、美的価値観に擬態した敵愾心を植え付けられ、一方通行の歴史をピックアップし、はてには満州で虐殺などなかったと言い出す。そのような都合の良い刺激を摂取しているとそもそも人間の器質的にネトウヨになってしまうものなのだろうとさえ思うのだ。
いずれにせよ人を逸り逸らせる動画メディアを見るにつけ、かつて確かにわずらわしいと感じていた「行間」や「遅さ」には至上の価値があったのではないかと思わずにいられないのであるが、いかんせんブログだってそこまで牧歌的なものではなかったことも確かではある。
もうすべて書いてしまおう。長文でとっちらかる可能性が高いけれどブログには行間がある。たぶん大丈夫だ。
右傾化した理由としてさらにいくつか書いていきたいのだが、ここまで右傾化した理由として「ネトウヨの記憶がなくなったこと」「恥の威力」「差別にたいする警戒心の無さ」があるのではないかと感じている。
ネットを見ていると右翼になる。なんとなくそんな警戒心が僕にはある。嫌韓論、フジテレビデモ、ヘイトスピーチ、在特会(在日特権を許さない市民の会)などの記憶があるせいか右翼はともかくとしてネトウヨは恥ずかしいものだというのがネットの原風景としてあるのだ。だから僕はネトウヨにならないと言いたいわけではなく、いずれやられてしまうと思っているのだが、ネトウヨは恥ずかしいという記憶があるからこそ今は耐えられてるのではないか。そう思えてならない。ゆたぼんの件もそうだが僕は右翼の定型句を見ると即座に身を構えてしまう。愛国と発することへの一抹の不安や躊躇があるのだ。しかしながらどうもそのような羞恥心は全体としては風化してネトウヨになることはいまや恥ずかしくないどころか社会として一定の評価を得るものになっているのであろう。
この「ネトウヨの記憶」だが、主に話題になっていたのは10年以上前のことなので今はほとんど風化している。それどころか知らない人も多いはずだ。特に10代や20代はかつてネットで醸成されたヘイトが新大久保の韓国人に向けられたことをほとんど知らないのではないか。
つまり、時が経ち、ネトウヨになることの恥ずかしさや警戒心が薄れてきたことにより「愛国」が再起動しはじめたのが今の状況なのではないかと愚考するのである。
この「恥ずかしくない」という考えはとても強力である。
というのも日本社会の特徴に「恥の文化」があるからだ。空気を読む日本人にとって恥は強烈に作用する。社会構造にたいしてすら大きな影響を与えているどころか恥こそが日本社会を規定していると言っても過言ではないだろう。
よく欧米は罪の文化が強く日本は恥の文化が強いと言われる。武士道、貞操観念、マチズモから自己責任論に至るまで恥やスティグマが日本社会に影響を及ぼしているのはみなが感じているところではないだろうか。また、ポストモダン以降、個人主義が浸透して恥の文化からそれぞれのやりたいことやなりたいもの、つまりは欲の文化が強くなったとも言われているが、ここではあまり関係ない。
いずれにせよ日本では古来より恥の文化が強いということだ。今でもそれは変わっていない。恥によって全体の空気がつくられ、人々の行動を制限し、スティグマや差別を生み出す。それと同時に恥が極端な考えを持たないための防波堤として機能している。功罪ある恥の文化であるが、ネトウヨになることは恥ずかしいという記憶が失われたことでネトウヨが再起動しはじめたのが今の状況だという見方ができる。それどころか若者にとって恥ずかしいとされているのはフェミニズムやヴィーガンのような考えになっている。愛国はいまや恥ずかしくないどころかフェミニズムやヴィーガンのような夢想的価値観から距離をとっているリアリストの証明として機能しているのだろう。
最後に「差別にたいする警戒心」が失われていることについて書いていきたい。
僕は3年程前からストリートファイター6をプレイするようになってその影響でプロゲーマーとして有名なウメハラさんの本や動画をすこしずつ見ているのだけど、そのウメハラさんが「そもそも自分には差別心がない」みたいなことを話されていた。どの動画か忘れてしまったのだがこの差別心がないというのははてな界隈にいる人間であればすぐに警戒心を抱くフレーズである。「自分は差別する人間ではないと思っている人間ほど差別する」「自分の差別心と向き合ってこそ差別をなくすことができる」などの批判がすぐに思い浮かぶ。リベラルの言葉を使えばマイクロアグレッションに自覚的になれという言い方もある。この批判にたいし賛否あるだろうけれどここでは関係ないので割愛する。
ここで言いたいのはウメハラさんのみならず、ネットで社会的議論に与しているような人々は例外であり、自分には差別心がないという考えのほうがむしろ一般的なのではないだろうかということだ。若い人と話しても多くがリベラル的価値観を内面化している。表現には寛容で、モラハラやカスハラなどの狭量さにたいして冷めた視線を向けている。そうした「社会的」な人の多くが自分は差別をしないしハラスメントもしないと謎の確信を持っているように僕には見えるのだが、こうした人々にとってはそもそもリベラル的価値観である反差別や反ハラスメントなどを唱えても「まだそこ?」としか思わないのであろう。
そもそも自らに差別心がない(と思っている)人に差別してはいけないと語っても詮無きことである。その意味でリベラルはもうその役割を終えたのかもしれない。差別心がない人にとってみれば今のリベラルは「わざわざ言う必要がないことを言っている人々」という認識となる。
けれど当然ながら人間が差別しないなんてことは原理的にありえないし今の若者だって歳を重ねればハラスメントを行うようになる。それは間違いない。なのでリベラルがこの先、必要になる時が必ずくる。今は多くの人が自分には差別心などないという勘違いをしている、できている時代に過ぎない。そしてこのような時代にあってはネトウヨになることだって差別ではないのだ。
「だって僕は差別心を持っていないし、国を愛しているだけなんだから、何が悪い」
現代はリベラル的価値観を内面化した差別心を持たない人々がその無謬性ゆえに右翼の定型句を発する時代だ。仮に名付けるのであれば社会性が高く、かつSNSが主要メディアであることからソーシャル右翼とでも名付けることができるであろうか。
以上のように並べていくとネトウヨが出てくる素地は整っているように見える。技術的には上述した動画メディアの隆盛、下地としてはネトウヨの記憶が失われたことと差別にたいする警戒心がなくなったこと、それらを後押しするのがリベラルフェミニズムへのバックラッシュ。具体的な移民の問題やオーバーツーリズムに不動産価格の上昇やインフレなども要因として数えることができる。なんにせよこれから社会は右傾化していくように思う。その時にまたリベラルが必要になる時がきて、リベラルの理念を教え、差別心なき人々が出てきて、差別心がないこと自体が愛国への躊躇を失わせ、以下ループとなる。歴史的に見れば「いつものこと」なのかもしれないが・・・